自由人のための生命論
── 基礎編-03
補論Ⅲ|自由は拘束の外にあるか
── フーコーをマトリクスに入れてみる
自由人を探した。
自由人はいなかった。
自由を二つに分けてみた。
すると、分けていた線まで見えてきた。
では、もう一つ。
かなり素朴な自由のイメージを置いてみる。
拘束されている。
そこから離脱する。
自由になる。
われわれのマトリクスにも、このイメージは残っている。
\[\boxed{ (\mathrm{拘束}\rightleftarrows\mathrm{離脱}) \times (\mathrm{他律}\rightleftarrows\mathrm{自律}) }\]拘束より離脱。
他律より自律。
そちらへ動けば、なんとなく自由に近づくように見える。
本論から二つの補論を歩いて、かなり怪しくなってはいる。
それでも、まだ残っている。
自由は、拘束の外にある。
ほんとうか。
ここへ、ミシェル・フーコーを入れてみる。
1|権力から逃げれば自由か
まず、わかりやすい図を置く。
権力がある。
人は拘束される。
そこから逃れる。
自由になる。
\[\mathrm{Power} \rightarrow \mathrm{Constraint} \rightarrow \mathrm{Escape} \rightarrow \mathrm{Freedom}\]きれいなRailである。
権力を、どこかにある巨大な抑圧装置として考えれば、なおさらわかりやすい。
国家から逃れる。
制度から逃れる。
学校から逃れる。
会社から逃れる。
家族から逃れる。
規範から逃れる。
そうすれば、そのぶん自由になる。
ところが、フーコーを入れると、このRailが怪しくなる。
権力は、どこか一か所に置かれたものから、一方的に降ってくるだけではない。
人と人。
制度と人。
知識と人。
規範と身体。
さまざまなrelationのなかに、権力関係がある。
では、権力関係の外へ出ればいい。
そう思う。
出てみる。
そこにもrelationがある。
2|No-Power駅
会社を辞める。
会社というrelationから離脱する。
だが、生活がある。
市場がある。
契約がある。
家族がいる。
行政がある。
言葉がある。
身体がある。
別のrelationに入る。
学校を辞める。
学校という制度から離脱する。
だが、学ぶ。
働く。
誰かと暮らす。
何かを評価する。
評価される。
また別のrelationに入る。
一つの権力関係から離脱することはできる。
しかし、すべての権力関係の外という場所は、なかなか見つからない。
No-Power駅。
探してみる。
駅がない。
いや。
駅があったとしても、そこへ行くRailがある。
3|では、自由はないのか
ここで、簡単にひっくり返したくなる。
権力関係の外へ出られない。
ならば、自由などない。
しかし、後期のフーコーでは、権力関係と自由は単純な反対語として置かれない。
権力関係は、相手が行為しうることを前提にしている。
従う。
拒む。
かわす。
交渉する。
別のやり方を試す。
複数の応答や行為の可能性が、そこには残されている。
その余地が閉じられていくとき、問題はむしろ固定化された支配状態へ近づく。
だから、権力関係があるということを、そのまま自由がないということにすることはできない。
われわれのMatrixへ戻せば、
\[\boxed{ \mathrm{Power}\neq\mathrm{No\ Freedom} }\]と読める。
またマトリクスが軋む。
4|拘束と自由は反対側にいるか
われわれは、
\[\mathrm{拘束}\rightleftarrows\mathrm{離脱}\]と置いた。
これは便利だった。
だが、ここへフーコーを入れると、拘束側にいるから自由がない とは言えなくなる。
逆に、離脱側にいるから自由である とも言えない。
会社員だから不自由。
フリーランスだから自由。
定住者だから不自由。
ノマドだから自由。
制度の中だから不自由。
制度の外だから自由。
そういう人物配置が、かなり怪しくなる。
離脱した先にもrelationがある。
拘束されているrelationのなかにも、別様に行為する余地があることがある。
すると、
\[\mathrm{拘束}\rightleftarrows\mathrm{離脱}\]は、不自由から自由へ向かうRailではなかった。
relationの異なる配置を見るために置いた、二本の杭だった。
5|自由の実践
では、自由とは何なのか。
ここで定義したくなる。
我慢する。
後期のフーコーは、「自由の実践」を語る。
自由を、どこかに保存されている物のように所有するのではなく、どう行為するか。
どう他者と関係するか。
どう自分自身と関係するか。
その実践の問題として考える。
すると、「自由人」という言葉もまた怪しくなる。
自由という属性をたくさん持っている人が、自由人なのではない。
自由人という種類の人間がいるわけでもない。
あるrelationのなかで、ある実践がある。
別のrelationでは、また別の実践がある。
われわれの側から読めば、自由人を探すより、自由がどう実践されているかを見る。
そんな読み方ができる。
6|自分を自由にする自分
しかし、ここでも油断できない。
自由を実践する。
自己を形成する。
自分との関係を組み替える。
それを聞くと、われわれはすぐに、自分を自由にする自分 を置きたくなる。
主体がいる。
主体が自分を編集する。
主体が自分を自由にする。
出た。
主体亡霊。
フーコー自身、主体を単純な出発点として置くのではなく、人がさまざまな実践や権力関係、知の編成のなかで、どのように主体として形成されるのかを問い続けた。
すると、
\[\mathrm{Subject} \rightarrow \mathrm{Practice} \rightarrow \mathrm{Freedom}\]というRailも、そのままでは置けない。
自由を実践している「私」は、その実践より前から完成した主体として、そこにいたのか。
また、マトリクスの下から何か出てきた。
7|Baseは拘束か
ここで、二塁ベースへ戻る。
二塁は動かせない。
少なくとも、試合の途中で勝手には動かせない。
拘束である。
しかし、二塁があるから、
進塁できる。
盗塁できる。
残塁できる。
野球ができる。
だから、Baseがあるから不自由である とは言えない。
では、Baseがあるから自由である のか。
それも言えない。
二塁がある。
ただ、それだけで盗塁できるわけではない。
走者がいる。
投手がいる。
捕手がいる。
状況がある。
relationがある。
そこで、プレーが起きる。
Baseはある。
拘束もある。
それでも、次のプレーは、まだ決まっていない。
8|Railから降りれば自由か
バーリンを齧ったとき、自由行きRailが見えた。
「本当に自由なあなた」という終着駅を先に置き、そこへ向かうRailを敷くことができる。
ならば、Railから降りればいい。
そう思う。
フーコーを入れてみる。
降りる。
そこにもrelationがある。
別の規範がある。
別の権力関係がある。
別のBaseがある。
そして、場合によっては、Railから降りることそのものがRailになる。
制度には従わない。
誰にも支配されない。
何にも属さない。
絶対にRailには乗らない。
No-Rail線。
また全線開通した。
自由は、Railの外側に置かれた終着駅でもなさそうだ。
9|自由は拘束の外にあるか
自由は拘束の外にあるか。
拘束から離脱する。
それで自由になることはある。
だが、離脱すれば自由になるとは限らない。
拘束されている。
それでも、自由の実践が見えることがある。
われわれのMatrixへ戻れば、
\[\boxed{ \mathrm{Constraint}\neq\mathrm{No\ Freedom} }\]そして、
\[\boxed{ \mathrm{Escape}\neq\mathrm{Freedom} }\]くらいまでは置けそうだ。
しかし、ここでまた、では自由とは何か と定義したくなる。
まだ置かない。
本論では、
自由人を探した。
自由人はいなかった。
ルターを入れると、自由な主人と仕える僕が、同時に現れた。
バーリンを入れると、二つの自由を分けていた線が見えた。
そしてフーコーを入れて、自由を拘束の外に探してみた。
外は、見つからなかった。
それでも、自由は消えなかった。
自由には、外がなかった。
探した→見つからなかった→それでも消えなかった→《自由には、外がなかった》
\(\boxed{ \begin{array}{ll} \text{ルター} & \text{位置が割れる}\\ \text{バーリン} & \text{分類線が見える}\\ \text{フーコー} & \text{外部が消える} \end{array}}\) 自由の場所はどこにあるのか?
自由には、外がなかった。
外がないなら、どこへ逃げる?
自由人を探した。
自由人はいなかった。
自由には影があった。
\[\boxed{\text{自由人のための生命論|基礎編}}\]TUP-PL-00|循環する自由人 ── 拘束と離脱、自律と他律のマトリクス
TUP-PL-01|補論Ⅰ|自由人は同時に僕である ── ルターをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-02|補論Ⅱ|自由は二つあるか ── バーリンをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-03|補論Ⅲ|自由は拘束の外にあるか ── フーコーをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-04|補論Ⅳ|逃走線にRailはあるか ── ドゥルーズ&ガタリをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-05|補論Ⅴ|自由とは現れなのか ── アレントをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-06|補論Ⅵ|逃走する自由、関わる自由 ── フーコー・ドゥルーズ&ガタリ・アレントの「あいだ」
TUP-PL-07|EgQE Integrated Short Essay|自由人のための生命論 ── 逃げながら、関わる
TUP-PL-PM-01|囚人のモダリティ ── 選択と現れ|Prisoner’s Modality: Choice and Appearance
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