自由人のための生命論
── 基礎編-01
補論Ⅰ|自由人は同時に僕である
── ルターをマトリクスに入れてみる
自由人を探した。
拘束と離脱。
他律と自律。
四つの言葉を置いて、マトリクスをつくった。
\[\boxed{ (\mathrm{拘束}\rightleftarrows\mathrm{離脱}) \times (\mathrm{他律}\rightleftarrows\mathrm{自律}) }\]そこへ、古典的な自由人を入れてみた。
自由市民と奴隷。
ディオゲネス。
エピクテトス。
カント。
サルトル。
すると、誰もじっとしていなかった。
拘束から離脱する。
離脱から拘束へ入る。
他律から自律へ動く。
自律して、また誰かに委ねる。
自由人の影は、マトリクスのなかを循環していた。
だから、こう考えた。
自由人は、一つの場所にいるのではない。
循環している。
ところが、ここにルターを入れると、少し困ったことになる。
1|自由な主人、仕える僕
1520年。
マルティン・ルターは『キリスト者の自由』で、一見すると矛盾する二つの命題を並べた。
キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であり、誰にも従属しない。
そして同時に、キリスト者は、すべてのものに仕える僕であり、すべての人に従属する。
自由な主人。
仕える僕。
どちらかではない。
同時に、である。
ここで、マトリクスが少し軋む。
2|どっちに置く?
ルター的自由人を、マトリクスに置いてみる。
自由な主人なら、
\[\mathrm{離脱}\times\mathrm{自律}\]に置きたくなる。
誰にも従属しない。
ところが、仕える僕なら、
\[\mathrm{拘束}\times\mathrm{他律}\]に置きたくなる。
すべての人に仕える。
では、一方から他方へ動くのか。
違う。
逆向きなのか。
それも違う。
ルターは、自由な主人になったあとで僕になる、と言っているわけではない。
主人をやめて、僕になるわけでもない。
自由であり、同時に僕である。
循環だけでは、うまく読めない。
3|往復ではなく、同時
本論では、
\[\mathrm{拘束}\rightleftarrows\mathrm{離脱}\]そして、
\[\mathrm{他律}\rightleftarrows\mathrm{自律}\]と置いた。
往復できる。
だから自由人の影は循環する。
そう読んだ。
しかし、ルターを入れると、
\[\mathrm{拘束}\ |\ \mathrm{離脱}\]そして、
\[\mathrm{他律}\ |\ \mathrm{自律}\]という別の見え方が出てくる。
どちらかから、どちらかへ。
ではない。
どちらも。
ここで、「自由人マトリクス」は人を分類する表ではないという最初の注意が、もう一度戻ってくる。
同じ人が、別の時点で別の象限に見えるだけではない。
同じ人が、同じときに、異なるrelationにおいて、異なる位置に見えることがある。
自律している。
同時に他律している。
離脱している。
同時に拘束されている。
矛盾しているように見える。
だが、軋んでいるのは人間ではなく、一人を一つの象限に置こうとするマトリクスのほうかもしれない。
4|僕は他律なのか
さらに齧ってみる。
「仕える僕」は、本当に他律なのだろうか。
誰かに強制されて仕えるなら、他律に見える。
だが、自ら仕えるならどうか。
自分で決めて、誰かに委ねる。
これは、日常にもある。
医者に任せる。
運転手に任せる。
約束を守る。
ルールに従う。
誰かのために働く。
自分で決めて、自分で決めない場所へ入る。
二塁ベースの位置を、自分では決めない。
それでも、自分で二塁へ走る。
他律は、自律の失敗とは限らない。
自律も、他律からの卒業とは限らない。
すると、
\[\mathrm{他律}\rightarrow\mathrm{自律}\]という一本のRailを敷くことも、少し怪しくなる。
5|自由になるというRail
自由について語るとき、私たちはつい一本のRailを敷く。
拘束から離脱へ。
他律から自律へ。
依存から独立へ。
不自由から自由へ。
その先に「自由人」がいる。
そんなRailである。
しかし、ルターの自由人像は、そのRailにうまく乗らない。
自由になったから、誰にも仕えなくなるのではない。
自由でありながら、仕える。
少なくとも、そういう自由人像がここにはある。
すると、離脱するほど自由になる というRailも、自律するほど自由になる というRailも、少し揺れる。
自由人は、Railの終着駅にいなかった。
6|マトリクスが齧られる
ルターをマトリクスに入れてみた。
ところが、うまく入らなかった。
それでいい。
マトリクスは、対象をきれいに分類するために置いたのではない。
対象を入れてみて、どこでマトリクスが軋むかを見るために置いた。
本論では、自由人の影が四象限を循環しているように見えた。
補論では、その循環すら怪しくなった。
往復だけではない。
同時に見えることがある。
\[\boxed{ \mathrm{自律}\ |\ \mathrm{他律} }\] \[\boxed{ \mathrm{離脱}\ |\ \mathrm{拘束} }\]マトリクスに入らないからといって、ルターを削る必要はない。
対象ではなく、マトリクスを疑う。
7|自由人は同時に僕である
自由人を探した。
自由な主人がいた。
仕える僕がいた。
ところが、それは二人ではなかった。
同時だった。
自由人は、拘束から離脱した完成形ではなかった。
他律から自律へ到達した完成形でもなかった。
循環しているように見えることもある。
同時に見えることもある。
relationが変われば、また違う影が見える。
だから、本論の最後に戻る。
自由人を探した。
自由人はいなかった。
自由には影があった。
\[\boxed{\text{自由人のための生命論|基礎編}}\]
TUP-PL-00|循環する自由人 ── 拘束と離脱、自律と他律のマトリクス
TUP-PL-01|補論Ⅰ|自由人は同時に僕である ── ルターをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-02|補論Ⅱ|自由は二つあるか ── バーリンをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-03|補論Ⅲ|自由は拘束の外にあるか ── フーコーをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-04|補論Ⅳ|逃走線にRailはあるか ── ドゥルーズ&ガタリをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-05|補論Ⅴ|自由とは現れなのか ── アレントをマトリクスに入れてみる
TUP-PL-06|補論Ⅵ|逃走する自由、関わる自由 ── フーコー・ドゥルーズ&ガタリ・アレントの「あいだ」
TUP-PL-07|EgQE Integrated Short Essay|自由人のための生命論 ── 逃げながら、関わる
TUP-PL-PM-01|囚人のモダリティ ── 選択と現れ|Prisoner’s Modality: Choice and Appearance
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