『実践感覚』「時間の働き」章 原典メモ
p.163 (章内、贈与のタイミング論)
科学が「土着の経験についての土着の理論」から手を切り、単一命題的なものへの全体化(逆的原理)によって「客観的モデル」を作ることへの批判──観察者は行為当事者たちを「晦冥なメカニズムによって彼らの身分に還元する」自動機械や慣性的物体として扱ってしまう。「互酬性循環」は実際には義務を尽くさせる絶対的規範としてではなく、契機に現前しうる能力として存在する。贈与と返礼の間の時間(不確実性)そのものが互酬性を「機械的歯車装置」ではなく「循環」たらしめる。人が忘恩・感謝の可能性を疑いうる限りでのみゲームは存在する──完全に予見可能な返礼は無礼として拒絶されることもある。カビル人のamahbul(気前の良い者/浪費家)の例。「友情を結ぶ小さな贈物」は即席の思いつきのように見えるが、外見上の不確実性にもかかわらず最も予見可能でありふれた社会的効果も生する。 小さな贈物は「無償の贈与」(elmaâtar=返礼なき贈与、「母の乳に似たもの」あるいはthikchi=お返しなしに与える)と区別される。
p.162 (章冒頭)
儀礼的実践研究への批判──実践の継起的展開による「脱全体化」(“それが起こる見込みのない実践の諸特性”、すなわち実践は時間の中で構築され時間から継起の順序としての意味・方向〔サンスの二重の意味で〕を受け取るという特性)を見逃すおそれ。行為の不可逆的で方向づけられた継起としての贈与交換・儀礼的闘い。レヴィ=ストロースの日常的表象批判/モースの互酬性循環の「現象学」レベル批判(交換は「本源的現象」ではなく、社会生活によって解体されたばらばらの操作である互酬性循環の「機械的法則」=返す義務と受け取る義務からなる贈与する義務の無意識的原理であると主張することへの批判)。
p.165 【★戦略の弁証法・蓋然性から絶対的不確実性への質的飛躍】
「互酬循環」の「機械的諸法則」が働くところとは違った仕方で事態が進行する可能性が存在することで十分である。蓋然性から絶対的不確実性への移行は、数的隔たりには比例しない質的飛躍を表現する。社会的法則の確率的論理の中に客観的根拠を見出す不確実性は、実践の経験だけでなく実践そのものを変えるに十分である──それは時間をそのリズム・方向・不可逆性ともども再導入することで戦略の弁証法を立てることであるが、だからといって「合理的行為者」の理論という想像的人類学に再び陥るわけではない。 「発明の技法(ars inveniendi)は組み合わせの技法(ars combinatoria)である。しかもひとは相対的に単純な発生的モデルを作ることができる。このモデルは実践の論理を理論的に説明できる。」──名誉に関わる行為・交換行為の宇宙を、それぞれの状況に適わしい行為を「選ぶ」ことを許してくれる、というヤーコブソンの言う「予め作製された諸表象の索引カード」に訴えないでも、多様性と明白な必然性によって人目を引くものだ、と論じる。 → 戦略・実践の生成モデルは「合理的選択理論」への回帰ではなく、不確実性・時間そのものを組み込んだ弁証法である、という論点──CABA-05のDisposition≠Cause/Strategy≠Strategistのさらなる理論的深化に使える。
p.164 (カビル社会の贈与の分類、要点)
小さな贈物(容易に返礼しあえるもの、家族関係の日常的秩序を維持する)と最も厳密に義務づけられた贈与(elahdya, lebna)の中間に、連続的でないわば「連結ヴェール/心尽くし」の論理の中で動くもの。elfal/thiririth、少量の小麦・穀物(女性的植物、弱さの象徴たる大麦ではない)、乾燥野菜などの「交換のきっかけになる」贈物、thimeghriwin(単数形thameghra=大祭:結婚・生誕・割礼の時の非日常的贈物elkhir/elahdya/lebna)、聖人のための義務的贈物lwâada──これらが空間的にも系譜上でも時間的にも「遠い縁者たち」(特別な機会に時たま不連続にしか互いに会わないから)が提供する貨幣や明による贈物と対立させられている。
p.167 【★名誉交換の発生的モデル(図式)】
名誉(elbahadla=恥辱)が降りかかる/道理に合わない挑戦を思い切って受けて立とうとする人にも反撃を控えるようにすれば「生意気者」というその気紛れな行為のしっぺ返しをしてやることになる。 かくして単純な図式が得られる: 贈与・言葉・挑戦 → 吟味 → {反撃しないこと→拒否として(軽蔑)/無能力として(不名誉)} / {反撃→対抗贈与・言い返し→エトセトラ} この発生的モデルはごく単純な組み合わせをもつごく少数の諸原理から出発して行なわれる一連の継起的選択へと交換を還元し、贈与・言葉・挑戦の交換と同じ程度に現象的に異なる諸交換(しばしば生命を賭ける)の無際限の選択を、同じ論理に従う他の諸選択に見合う大きな賭金をもって(名誉の交換や呪術・宗教の機能を説明し、カビル族風の順序・良く/再現する⑧の)説明することができる。カビル民族誌の伝統によって提供されるあらゆる慣例集のあらゆる条項を手に入れるための手段する「公平感覚」に適わしい法的行為のありうべき集成体を作り出す手に入れる…神話=儀礼的世界像の基本図式(昼/夜、男性/女性、外/内、聖/俗〔h’aram〕)。 → CABA-05のStrategy≠Strategist(戦略はあるが戦略家=意識的計算主体はいない)を裏付ける最も明確な一節──名誉交換の全体が「発生的モデル」として少数の組み合わせ原理から説明されるが、この原理を行為者が意識的に操作しているわけではない。
p.166-169 (名誉交換の平等原則・実践論理の独自性)
p.166: 挑戦は「相手の承認を内に含んでいる」点で一方的暴力とは違う──名誉の平等を認めることを当然の結果として含む。互酬性公準の換位命題として、同等者たりえない者との名誉交換には入れない(格下・格上への挑戦は成立しない/面目を失う)。名誉に関わる基本原則(“名誉面での平等原則”)は決して明示的に立てられてはいないが、名誉感覚がそれを実践的に修得させる。 p.169: 実践の論理は原則的に客観的に首尾一貫した発生的・組織化的図式の体系として実践状態で機能するが、この論理は論理学的論理が持つ厳密さ・恒常性を持たない──学問的分析は、内部の諸実践を導くものを外部に客観的に制御可能な図式の表象へと転換することで、実践感覚が表象することなしに働かせる実践的図式を、部分的で不適切な表象へと変換してしまう危険もある。 p.168: h’aram(神聖性・禁忌)概念による盗みの重大性評価──場所と時機(聖なる場所である家を他の場所に対して、祝祭日を通常日に対立させる)を考慮に入れる暗黙の実践的原則。Ighil Imoulaの慣習法(qanun)の実例(家畜泥棒への罰金規定)。h’urma(神聖性)侵害への正当防衛としての殺人は罰せられない、など、盗みの評価は行為者の属性(男/女、大人/子供)・場所(家の中/外)・手口に応じて変わる。
p.170-173(別ファイルで再撮影分、クリア判読できた)
p.170 【★opus operatum批判/docte ignorance】
客観主義的理論は完成された作品(opus operatum)からその産出の算定原理を抽出して、それを実践の規範に仕立て上げてしまう危険がある(「名誉は……を欲する」「礼儀作法は……を要求する」「慣習は……を要求する」等の文句を伴って)。テニス・ヴァイオリン・チェス・ダンス・ボクシングの教育が、人為的に分離される行動の要素的単位(姿勢・歩調・動作)へと分解するのと同様に、インフォーマントたちは一般的規範(常に例外を伴うが)や人目を惹く「動作」を提供したがる──彼らはプラトンが言うように「現にある通りのものである限り」実践の中でしかこの母型を把握しない、理論的に我が物にすることができないからである。実践的修得の真理は「無知の知(docte ignorance)」──彼ら自身の原理の認識を含まない実践的認識様式としての真理──である。それは研究を幻想的説明へと誘うからではなく、それらが諸実践の客観的アプローチに内在する実践の理論を不必要に強化するからである。
p.171 (伝統主義/アカデミズム批判)
実践的図式を明確な規範へと定式化し構成することは特権的な機会のひとつであり、制度化された教育の出現は言説を経ないで実践から実践へと直接に移っていく散漫な教育の危機と無縁ではない。伝統主義(アカデミズム)が告発する「逸脱」は、実は実践の現実的原理の認識に足場を持たぬ実践を明示化・コード化しようとするあらゆる試みに内在している。スポーツや芸術の実践学習を合理化するための諸研究が明らかにしているように、実践感覚(より正確に言えば「ゲーム感覚」)が実践状態で修得している諸原理を明示的状態にもたらす形式的・モデル的・コード化にはルールに根拠を求めることができない以上、スポーツ活動の教育は規則ではなく、それどころかコツで我慢しなければならない(例えばラグビーの場合、練習上の注意は競技者間の正当な関係に優先権を与える──敵との関係に集中する代わりに競技者間の連携に集中する)。
p.172 【★名誉感覚が身体化されている、実践感覚の即応性】
規則という半学問的産物が実践の適切な理論を構築するにあたって大いなる障害物になる──理論的母型と実践的母型の関係を問えなくしてしまう。挑戦と反撃、贈与と対抗贈与の弁証法の動因は抽象的公理系ではなく名誉感覚である。「この名誉感覚は一次教育によって教え込まれ、集団によってたえず要求され強化されて、姿勢や身体のひだの中にも(身体や視線を保つ仕方、語り方、食い方、歩き方の中にも)、人間がそれを通して人間らしい人間として、すなわち男らしい人間として自己主張する言語活動と思考の自動装置の中にも刻み込まれている。」規則も原理も含まない実践感覚は、その場で即座に、火急の行為の中で状況の意味=方向を評価し、直ちに適確な反応を産み出すことを可能にする──本能の自動的確実さをもって機能するこの種の後天的習熟だけが、不確実な状況と実践の両義性に瞬間的に対処させることができる。 → 「名誉感覚が身体化され姿勢・視線・語り方・歩き方に刻み込まれている」という一節は、Body≠Carrier/bodily hexisのさらに強い裏付けになる。CABA-05の「主体なき選択はどこで起きるか」への回答としても使える──選択は「即座の身体的反応」として起きており、規則の適用としてではない。
p.173 【★illusioの理論化宣言、賢人(imusnawen)の侵犯】
imusnawen(賢人)の侵犯が示しているように、問題となっているのは単にその場の掟を行なうことではなく、その場で直ちにその掟を唯一正当な掟として承認させうる反応と状況の定義を同時に人々に押しつけることである──自分自身の象徴的価値、行為の蓋然的意味を、他人がその行為と行為者に下す判断に先んじて、正しく認識することのおかげである。 「切断か参加かのどちらかを儀礼的に選択するのではなく、原理上ゲームへの実践的参加──illusio──としての実践の論理を理論化しなければならないし、同時に理論的切断の理論、この切断が想定し産出する距離の理論を作らなくてはならない。」 客観主義的見方は、実践が生きられ働きかける仕方よりも、外から瞬間的に現われる実践、あっさりと純粋モデルに立ち止まる経験を特権的に扱う──贈与の客観主義的真理(モデルに立脚する真理=観察者の真理)と主観的真理(交換の主観的経験)との関係の問題を遠ざけてしまう。 → illusioが「ゲームへの実践的参加」として明示的に定義され、しかも「理論的切断」(=科学的距離)と対になる形で理論化されている──CABA-08で扱った「観察者は被告人を捏造して起訴した」問題とも構造的に響き合う一節(観察者の客観主義的真理が実践の主観的真理を置き換えてしまう誤謬)。
p.174-175 【★贈与交換の時間差=誤認(méconnaissance)を可能にする条件】
p.174: 観察者が可逆的なものとして構成する諸行為の流れを、当事者は非可逆的なものとして実践する──「客観的」眼差しの脱時間化的効果(循環として見える)と、当事者が自分の一連の不可逆的選択によって産出する客観的に不可逆的で予見不可能な流れ、のどちらを取るか。贈与の主観的真理は、贈与を贈与として認める対抗贈与の中でのみ成就される──互酬性が「客観的」真理(分散的な体験的行為の全体構造)だとすれば、実践の主観的真理がこの客観的真理と完全に一致した場合、実践はもはや真理でなくなる(=対抗贈与は侮辱を覚悟で延期されたり形を変えたりしなければならない。正確に同じ物を即座に返すことは明白な拒否に等しい)。贈与交換は「与える-与える」(ギブ・アンド・テイク)のモデルとも、法的に保証された貸付け(契約設定の瞬間にすでに返済が実行されているようなもの)とも対立する。
p.175: 贈与と対抗贈与を分け隔てる時間の間隔は、交換の客観的メカニズムの真理(直接返済が残酷にあばき出す真理=損得勘定)を個人的にも集団的にも否認するために不可欠であり、この時間の間隔こそが交換の機能条件を構成する。ロシュフーコーの引用「余りに急いで負債を返そうとすることは、一種の恩知らずである」──義務から解放されようと急ぐ様子を見せることは、最初の贈与を義務を押しつける意図から出たものだったと遡って非難することになる。 → これはCABA-05C(Relation≠Ground)・CABA-07のdoxa/méconnaissance論点にとって非常に重要──「誤認」は単なる認識の誤りではなく、時間の間隔という構造的装置によって能動的に生産・維持される社会的装置そのものである、という論点。即座の等価交換は関係そのものを破壊する。
p.176-179 【★テンポの操作=戦略、即興の巨匠、否認の道具としての間隔】
p.176: 民族学者(観察者)は「時宜を得て・時間の中でのみ実行される実践」を可逆的流れの互換的契機に置き換えるというただそれだけの操作によって、実践の真理を残酷にもあばき出してしまう。「間隔をなくすことは、戦略をなくすことである。」この挿入期間(贈与交換の中でとりわけはっきり見られる)は短か過ぎても長過ぎてもいけない(特に復讐のための殺害応酬の場合)──客観主義モデルが作る「死んだ時間、無意味な時間」とは正反対のものである。恩恵を受けた者は返礼していない間は義務を負わされた者であり、恩人に感謝・敬意・気配りを示し続けなければならず、そうしないと忘恩の誹りを免れない。
p.177 【★戦略はテンポの操作である】 侮辱(h’aramへの侵犯)と復讐の弁証法──回避も許されない。「戦略は時間を、もっと適切に言えば行為のテンポをうまく使いこなして」復讐を引き延ばす、待機する・延期する・遅延させる・待たせる、といったテンポの操作そのものが戦略の中身である。
p.178 【★「即興の巨匠」――これ以外にはやりようがなかった】 「待たせる、あるいは反対に急がせる、早める、先を越す、不意を打つ、奇襲する、機先を制する」等々──これ見よがしに時間を与える技法、時間を拒否する技法。「贈物は友情を結ぶ」(「お贈物よ、おまえは私を豊かにしてくれないが、おまえは友情を結んでくれる」)。 「自分の生き方を完全に熟知した巨匠だけが、行為と状況の両義性と不確定性から生ずるあらゆる手段を使いこなすことができて、そのつど適わしい行為を創出し、『これ以外にはやりようがなかったのだ』と言われることをなし、しかもそれをしかるべく巧みに――かなり立派に――なすことができる。」規範や規則からも、機械的連鎖からも程遠い、即興の技法。 → CABA-05のStrategy≠Strategistの最も強力な原典的裏付け──「戦略」はテンポ操作という高度な実践技能として存在するが、それを操る「巨匠」ですら規則やカタログを参照しているのではなく、「これ以外にはやりようがなかった」という事後的にしか記述できない即興として行為している。戦略はあるが、戦略を意識的に計算する主体(strategist)は必要とされない、という論点の最終確認。
p.179: 贈与と対抗贈与との間に挿入された間隔は「否認」の道具であり、これは個人の信仰を大変な労苦を払って確立する他はない──これが客観主義の不運である(客観主義は実践の真理を犠牲にしてしまう)。客観主義モデルとハビトゥス(理論的図式と実践的感覚の図式)との関係は、公式の規範・理論という第三項によって複雑になる。ハビトゥスは自発的にそうした表現(格言・諺・慣習的規則等)を産み出し、承認し、強化する傾向がある。
p.180-184(政治・公認化戦略・呪術的効果、要点)
p.180-183: ハビトゥスの世代間相続、公式の集団的意思表示(祭儀・行列・示威行進)による集団の自己確認。客観主義は「集団が全員一致して認める限りは客観性の最も異論の余地のない形態」である現実の表象を「客観的」真理として扱ってしまう誤り。政治的行為は公認化戦略の一種であり、私的利益を普遍的・公的な形態(格言・諺・格言詩)で言語化することで集団に影響力を及ぼす権力を獲得する。言語行為の呪術的効果の原理は言語活動自体の中にあるのではなく、それを承認し権威づける集団の中にある。カビリアの慣習法(qanun)の実例──賢人による仲裁は「断罪された」側の同意なしには実行できない(=力の行使ではなく「公平感覚」への合致による自発的受容)。
p.184 【★名誉の道徳=検閲としての集団的相互監視】
「名誉の道徳は他のすべての事項の重要度を左右し、抑圧された文法上の規則のようにあらゆる実践によって否定されるとしても、それはやはり依然として適切で現実的有効性をも持っている。なぜなら、たとえそれが例外しか持たない意味作用や機能を徐々に暴露する魔術からの解放は錯綜した検閲──各人はこれを他のすべての人々に負わせるばかりでなく、それは現実的有効性をも持っている、あろうとする諸実践の真理であるからだ。」──名誉の道徳の解放(=否認の解除)は「集団的否認の危機からのみ生まれることができる」。 → doxa/méconnaissanceが「各人が互いに強制しあう相互検閲」として社会的に分散配置されている、という一節──個人の錯覚ではなく集団的インフラとしての誤認、という論点をさらに補強。
第七章「象徴資本」冒頭(p.185)
「日常生活における戦略は、その無限の複雑さを、贈与者の側の表に出さない計算が、受領者の要求を知らないような顔をしながら満足させるという事実に負っている。ところが、贈与の投企に反対贈与を後から回顧的に投影する理論構築は、強制された行為からなる機械的な連鎖へと変えてしまう。だが、理論構築の効果はそれにとどまるものではない。同じ操作の中で理論・保証される即興を、贈与交換という誤認の可能性の諸条件を消滅させるのだ。」象徴的労働(親族・隣人関係へと変換する)によって、搾取関係(男による女の、長子による第二子の、年長者による若年者の)を、自然に・深層において次々に設立され意識されない交換関係へと変換する。 → ここから象徴資本論(搾取関係を親族・互酬性の言語に変換=誤認によって成立する)が始まる──時間の働き章の「間隔=否認装置」論とそのまま接続する重要な導入部。
「時間の働き」章、読了範囲まとめ
p.162(章冒頭)からp.184(章末尾)まで通読完了。p.185で第七章「象徴資本」に入ったところで一旦区切った。
(続き:別ファイルtime2の4ページは上記p.170-173として本文中に統合済み。)
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