『実践感覚』(Le Sens Pratique) 原典メモ — CABA-05 補強用
第三章「構造、ハビトゥス、実践」
p.82 (章冒頭)
客観主義批判の導入。客観主義は社会的世界を観察者の目に供されるスペクタクルにしてしまい、「二視点」(高所からの視点)を手に入れる。社会的世界を représentation(表象・再現・上演)として扱う点で観念論哲学、絵画、演劇と同じ構造だと批判。 「実践の理論は実証主義唯物論に対して構成され、常に実践的な諸機能に方向づけられているシステムであることを想い起こさせる。主知主義観念論に対しては、この構築の原理は、構造化され構造化する諸々の心的傾向のシステム、実践の中で構成されるものであって受動的に記録されるのではないことを想い起こさせる。」 → 客観主義=表象/スペクタクル化 vs 主知主義=受動的記録、の両方を退ける二正面作戦としてhabitus導入が始まる。
p.83 【★ハビトゥスの定式(カノニカル定義)】
「ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的[諸]傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造(structures structurées)である。そしてそれは実践と表象とは、それらが向かう目標に客観的に適応させられうるが、ただし目的の意識的志向や、当の目的に達するために必要な操作を明白な形で会得していることを前提してはいない。」 → 英語で言う “structured structures predisposed to function as structuring structures” の定式そのもの。CABA-05Bで参照していた核心公式、p.83で原典確認。
同ページ: modus operandi〔製作法〕と opus operatum〔完成作品〕の対比。構造の実在論(構造主義)がopus operatumだけを見てmodus operandiを見落とす、という批判の伏線。 「バビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的System…生存のための諸条件のうちで或る特殊な集合(クラス)に結びついた様々な条件づけが、ハビトゥスを生産する。」
p.84
オーケストラの比喩: ハビトゥスは指揮者による組織行動の産物でも、規則への従属の産物でもない。ハビトゥスの反応は「戦略上の計算」を伴うように見えても、それは意識的な計算ではなく、客観的ポテンシャリティとの関係で定義される。 「べき現在」= 未来を先取りする habitus の時間構造。Hegel的な「絶対的可能性」としての未来とは反対に、habitus は慣習的な反応の引き金という条件でしか作用しない。 フッサール「恒常的な目的論的性格」への言及、シュッツ/モースの「(circularに)規則性が了解される」構造への言及。
p.85 【★hysteresis効果の論理的骨格 + faire de nécessité vertu】
「ハビトゥスが産み出す予測は、確率計算の妥当性が従属する制限を無視する傾向をもつようになる。つまり、経験の諸条件が変化を蒙っていないかのように思い込む。だから、ひとつ経験を経るたびに厳密な計算規則にのっとって自己修正をしてゆく学問的見積りとはちがって、ハビトゥスが生む予測は、過去の経験に基づいた一種の実践仮説であり、一次的諸経験に法外な重みを与えることになる。」 → 【これがhysteresis effectの理論的核心】経験の条件が変わったのに、habitusは過去(特に最初期の経験)の比重を過大評価したまま予測し続ける──「条件が変化していないかのように思い込む」がまさにhysteresis(生成条件が変わっても構造が旧条件のまま作動し続ける)のロジック。出典: p.85、まだ具体的な出来事例(旧植民地/移民労働者など)は本ページには出ていない。前後にある可能性あり、要追跡。
「必然を徳とする(faire de nécessité vertu)、つまり拒絶されるものを拒絶し、不可避なことを望む傾き」 → 客観的制約(必然)を主観的性向・選好へと転換する、まさに Disposition≠Cause / Choice≠Decision (doxa前濾過)を裏付ける一文。CABA-05Dの「主体なき選択はどこで起きるか」に直結。
「信仰と身体」章 (PDF2, p.108-127)
p.116
身体への関係は「言語活動と時間への関係から切り離せないハビトゥスの根本次元」。階級・性別に応じた身体言語(支配・服従の身体的・言葉的言語)の分化。「身体のイメージ」は他人によって作られ送り返される記述的・規範的なフィードバックであり、自己評価(self-esteem)を含む。
p.117 【★corps croit系引用、確定】
「身体はこれが演ずることを信じている──悲しみを模擬すれば涙が流れる。身体はそれが演ずるものを表象せず、過去を記憶しない。それは過去に働きかけ、このように過去それ自体としては無化して過去を生き直す。身体によって学ばれるものは、人が自由にできる知のように所有する何ものかではなくて、人格と一体となった何ものかである。」 → CABA-05Eで「未検証」としていた”le corps croit ce qu’il joue”に対応する一文、確定。出典はPascalian Meditationsではなく『実践感覚』信仰と身体章 p.117だった(先行の出典推定は誤り)。bodily hexisが「所有物ではなく人格と一体化したもの」という一文はBody≠Carrierの直接的裏付け。
「実践の論理」章 (PDF3, p.129〜)
p.129 (章冒頭)
交換のゲーム比喩。触覚的機敏さ(tact)、指使いの機転(doigté)。民族学者が「機械モデルの言語」に頼らず、身体の構え(disposition)の中に、攻撃する/身をかわす形跡が含まれることを見抜くべきだと主張。義理の会話、紋切り型表現、ゲームの運びに身を委ねながらゲームの外に運び出されてしまわぬための「不断の用心」。 → 実践的センスとしての身体の構え(タクト)がstrategy without strategistの具体例として使えそう。まだdoxa/illusio定義そのものには到達せず。続きのページで確認予定。
第三章 続き (p.86-89)
p.86
ハビトゥス生産は「生存条件の構造」による経済的・社会的必然性の圧力を通じて行われ、この必然性は家政経済と家族関係という比較的自律した世界(両性の分業形態、消費様式、親族関係)を通じて働く。ハビトゥスは個人的・集団的実践を、歴史が産み出した図式に沿って生産する。過去の経験は各々の組織体に知覚・思考・行為の図式という形で沈殿し、実践の恒久性を保とうとする傾向をもつ。「機械論的決定論」でも「純粋な自発性を主張する主観主義」でもなく、その中間=内部化された外部性としてhabitus。
p.87
「ハビトゥスとは、歴史的・社会的な生産物──思考・知覚・表現・行為──を、(制御を受けながらも)全く自由に生み出す能力なのだから、ハビトゥスが保証する自由、条件づけられた自由は、機械的な単なる再生産からも、予見できない新奇なものの創造からも等しくかけ離れたものである。」 → 決定論/自由、条件づけ/創造性、意識/無意識、個人/社会、という二者択一そのものをハビトゥスは乗り越えようとする、という宣言。 芸術家の比喩: 遺された作品・伝記的出来事などの生の痕跡の総体は、痕跡に先立って存在する型の図式(スキーマ)を、精神の同一性を保ちながら変形しうる「解決」として存在する──原初のインスピレーションの弁証法という発想への批判。
p.88
複数のハビトゥスによって生み出された作品・実践の間に見られる「スタイルの統一」の議論。ハビトゥスの生成は予見不可能でありながら「理に適った」「常識」の範囲内に収まる──客観的規則性と両立する振舞いだけを生み出す。「暴力も技巧も使わず、議論もせずに」あらゆる「狂気」(客観的条件と両立しない振舞い)を締め出す傾向をハビトゥスは持つ。
p.89 【★「惰性」= hysteresis語彙の原文所在、確定】
「ハビトゥスは、自らの現在が直接、自らから演繹されることはない…実践は、ハビトゥスを構成する認知・動機づけ構造が現在の状況の中に…規則性を再生産する場合にだけ…実践を説明できるのはただ、実践を生産したハビトゥスが構成される場をなす社会的諸条件と、ハビトゥスが効力を発揮する場である社会的諸条件との関連をも考慮する場合だけである。」 「合理主義理論の『惰性なき主体』にもハビトゥスは同じく異議を唱える。歴史から独立してあると同時に、事物の中に蓄積された資本として現実化することにもなる、反省的自由にも同じく異議を唱える…行為者たちをもたぬ機械論…ハビトゥスは…歴史の中で個別の行為者を通してこの過去がなおも及ぼす作用を蒙りながらも、自律した現在として自らを見せる能力をもつ(直接には見えなくとも自律しているのは)自らが生産した現在からも独立でありながら…忘却されたのであってこの関係づけだけであって、それ以外の何ものでもない。」 → 「惰性なき主体」に異議を唱える一節に「惰性」という語が明示的に出現。ハビトゥスは生産条件から時間的に切り離された後も、過去の刻印(惰性)を保持し続ける、という論点そのものがhysteresis effectの理論的定式。ただし具体的な「新条件への不適合」の実例(移民労働者や旧植民地小農民など)はまだ本ページには未出──実例は本書の別の場所(第二章、あるいは『アルジェリア論』本体)にある可能性が高く、この3冊の範囲内では未確認。
p.90-93 (要点のみ)
p.90: 言説の製作法(modus operandi)は「部族の言葉」(“langue tribale”相当)の弁証法として機能し、表現手段への精通が自由の資源になる、という議論。ニコライ・ハルトマンの「運ぶ/運ばれる」引用。 p.91: ハビトゥスと制度の弁証法。マルクスの「土地が人を相続する」/「人が土地を相続する」転倒、資本家の「人格化」する資本、長男の相続などの例。「魔術的過程」としての制度化。 p.92: 「有標化(marquage instituant)」= 制度化行為。ハビトゥスと構造が同じ歴史の産物である限りで相互に理解可能・整合的──「実践感覚と客観的意味との合致がもたらす根本的な効果のひとつは、常識(sens commun)の世界の生産である。」コンセンサス=個人的・集合的経験の調和、諸経験の連続的強化。 p.93: ハビトゥスの均質性は、集団や階級の生存条件・社会的条件づけの均質性から生じ、明示的な戦略上の計算なしに相互行為の当事者たちの心的傾向を客観的に同調させる──「相互行為に先立つ客観的な諸構造」。
p.94-101 (要点)
p.94: オーケストラの比喩(3つの時計)続き。指揮者不在のオーケストレーションの真の原理=ライプニッツの「各人が自分自身の法に従いつつ、それでも他者と共調する」。ハビトゥスとは同一の歴史が身体に記入する lex insita(内在的法)。 p.95: 階級=集合のハビトゥスの均質性、階級間軌道の差異の原理。 p.96: 階級=集合のハビトゥスと個人のハビトゥス(intuitus personae)の関係=相同性(homologie)。 p.97: 一次的経験(早期経験)が持つ過大な重みは、ハビトゥスが「自分の恒常性と自己防御を保ち続ける傾向」から来る──新しい情報に対して非好意的であり、蓄積された情報を疑問視できる情報を拒絶する。 p.98: 危機・批判的疑問視からの回避、パラドクスの解決の原理、戦略の予見不可能性。 p.99: 贈与の連鎖の目的論的記述vs機械論的記述、「戦略」概念の正当化。 p.101: M.ウェーバーの「客観的に妥当な」チャンス概念、実践の人類学的記述と純粋モデルの違い。
p.100 【★★★ hysteresis効果、原文で確定(「履歴(ヒステリシス)現象」と明記)】
「ハビトゥスが行なうこの種の擬似的な未来予測における過去の現前が最もよく看て取れるのは、逆説的にも、蓋然性の高い未来の意味・方向が裏切られる時であり、履歴(ヒステリシス)現象の効果(その例がマルクスにとって貴重なドン・キホーテだ)と相関して、客観的なチャンスにうまく調整を受けていない心的傾向が、その実際に直面している環境が、それを生産した経済・社会的諸条件を越えて生き延びることができる心的傾向を備えているという事実に負っているが、この傾向が、適応と同じく不適応の、諦めと同じく反抗の元にありうるわけだ。」 → CABA-05で「Bourdieu 1972/1977, Outline of a Theory of Practice, p.78」と二次資料経由・中程度の信頼度でしか引けていなかったhysteresis effectの一節が、『実践感覚』p.100に原文で確認できた。日本語では「履歴(ヒステリシス)」とルビ付きで訳出されている。具体例として、マルクスが引くドン・キホーテ(生産条件を離れて生き延びる心的傾向の例)が挙げられている──CABA-05の「時代遅れの騎士道精神」的な適用例が実際に原典にあったことになる。出典を Outline of a Theory of Practice(1972/1977)からLe Sens Pratique(1980)p.100へ訂正・格上げできる。
同ページ続き: 集団はそれを生産した経済・社会的条件を超えて生き延びる心的傾向を備えており、これが適応の元にも不適応の元にも、諦めの元にも反抗の元にもなりうる、という両義性の指摘──hysteresisは単に「時代遅れ」なだけでなく、条件変化への抵抗が反抗のリソースにもなりうるという二重の含みを持つ。これはCABA-05Dの「主体なき選択」論点とも接続しうる新しい発見。
p.102-104 (第三章末尾)
p.102: 経済理論批判──「潜在的な機会」に対する反応しか見ない経済学理論は、経済・文化資本を欠いた人々に「巡まれぬ条件を受け入れるよう仕向ける」二重の制裁を隠蔽する、という階級バイアス批判。 p.103: 「未来に対する先買権(droits de préemption sur le futur)」概念。聖/俗の区別との類比で「我々にとって可能なもの/不可能なもの」というカテゴリーの社会的配分。 p.104: 「有効な需要」(マルクスの欲求・欲望論と接続)。ハビトゥスは客観的条件に自己調整し、確率の高いものを現実化しようとする過程の「共犯」になる傾向──諦め/欲望の自己限定の理論的基盤。
第四章「信仰と身体」冒頭 (p.105-107)
p.105 【★ゲーム感覚(le sens du jeu)概念の導入】
「身体表象も世界表象も全く想定せず、まして身体-世界関係の表象も想定しない準身体的な志向…この緊張性が世界から押し迫らせてくる諸々の『選択』を方向づける。これらの選択は熟慮されたものではないが、それでもやはり系統的であり、目的に照らして秩序づけられ組織される場の諸要求に対する先取り…この実践感覚の特に模範的な例は、スポーツ用語でいう『ゲーム感覚』とよばれるものだ。これはハビトゥスと場との出会いがゲーム感覚とよばれるもので…ゲーム感覚とは、身体化された歴史と客観化された歴史が出会うゲーム空間の産物であって…」 → le sens du jeu(ゲーム感覚)がhabitus×field(ゲーム空間)の出会いの産物として定義される、まさにCABA-05が探していた「[habitus×capital]+field=practice」に構造的に対応する一節。ただし公式そのものは代数的formulaの形では出てこず、あくまで散文的定義。
p.106
ゲームへの参加は賭け金への投資、ゲームの諸前提への同意(=doxa相当)を伴う。「集団的信仰とその物神を基礎づける」誤認(méconnaissance)。ヴァージニア・ウルフの小説の例(意図や志向を破壊して行為を一連のスナップショットに細分する)。
p.107 【★イリュージオ(illusio)の語自体が登場】
「ゲームへの参加は…準=契約の形態をとる。」「これは遊びでしかないのだ」を忘れるほど「勝負に拘わる」人々にとっては対自的ゲームでなく、ゲームの中でゲームとともに生れるものとして自覚されないだけに一層全面的で無条件的である。「信仰・イリュージオと投資の関係は…共に生れることである」。 母語の学習(任意のゲームとして自覚されない、賭けとして自覚されない)と外国語の学習(すでに構成された心的傾向で明白に文法・規則・教育制度によって教育される)との対比。 → CABA-05で扱っていたillusio概念の原文所在を確定。doxa/illusioは実践の論理章だけでなく、この信仰と身体章冒頭(ゲーム感覚論)でもすでに導入されている。
p.108-111
p.108: 信仰は場への帰属と一体。カント『純粋理性批判』の「実用的信仰」(任意の決断を堅持する森に迷った旅人=不確実な命題への決断的同意)とは正反対──ハビトゥスの信仰は場が秘かに強制する参加権であり、決断ではない。通過儀礼(儀礼・試練)による新規参入者の選択と教育、異論の余地のない前反省的な「自然な」承認。象徴資本は場の機能の論理が錯認されることを通してのみ実現される──集団的企てへの投資。
p.109 【★doxaの定義そのもの】 「実践的信仰は『魂の状態』ではなく、まして制度化された教義体や学説への一種の決断的同意(『信仰』)でもなくて、こう言ってよければ身体の状態である。本源的ドクサは、実践の中で、ハビトゥスと、それがはめ込まれている場との間に確立される直接的同意の関係であり、実践感覚によって獲得される。」 → doxa=habitusとfieldの間の「直接的同意の関係」という定義そのものが確認できた。CABA-05C(Relation≠Ground)・CABA-07(Before Choice)双方の核心的引用として使える。 同ページ: 言説の力だけでは根本的に異なる生存条件を現実に生き抜くことはできない──「そこに生れることが肝心だ」。民族学者が他者の信仰を「生き直す」試みの限界(決断的信仰から自己欺瞞と二股膏薬=二重人格しか生まない)。banisher(排除)の利点──ドクサはそれを知らない者にこそ有効に機能する、という参加的客観化の逆説。
p.110: パスカル的論理──信仰を忘却として扱い、身体を「思考することなしに精神を導く」自動機械として扱う。ライプニッツの「盲目的あるいは象徴的思考」(cogitatio coeca vel symbolica)。行為者たちは自分がやっていることを決して完全には知らないがゆえに、自分が知っている以上の意味を持つ。身体を特定の姿勢に置き直す単純な振舞いによって感情と思考を呼び醒ます(祝祭儀礼の例)。
p.111: 教育の秘かな説得は身体化を通して「まっすぐに立て」のような一見取るに足りない命令の中にコスモロジー・倫理・形而上学・政治を教え込む。身体技法を一種の全体的部分(pars totalis)にする図式の転移論理はpars pro toto(部分が全体を代表する)の誤謬推理として機能する。教育的理性の狡智は、取るに足らぬことを要求するという見せかけの下に本質的なこと(既成秩序への服従)を奪い取ることにある。 → Body≠Carrier/bodily hexisの理論的説明として非常に強い一節──身体技法という「部分」が価値体系という「全体」を代表してしまう(pars pro toto)論理そのものが、身体が単なる担い手ではなく全体を凝縮する場になる理由を説明している。
p.112-115 (カビル社会の身体的性差、要点)
p.112-113: カビル社会における男女の身振り・歩き方・食事作法の対比(直線的で果断な男性の歩み vs 慎み深く曲線的な女性の歩み、口を大きく開けて食べる/隠すように食べる、等)。「名誉ある人間の歩みは果断で決然としている」。両義的な言葉=起動力(モンタージュ)による情動の身体的表現の規則正しい配列を通して思考を秩序づける、という象徴効果の原理。 p.114 【★amor fati語彙、原文所在確認】 「木の小枝を拾い集める仕事」等の性別分業の例、「女は男が大地にたたき落した木の小枝を拾い集めて…」式の実践的原理の言明。「このような論理は、ひとが運命づけられている仕事への『使命感』を、現に行なわれている分類体系への信仰を強化する運命愛(amor fati)をかき立てる」──分類体系は現にかくある以外にはない自然らしい外観を提示することでこの現実を産出することに貢献する。 → 「運命愛」の原文所在が確認できた。分類体系(社会的に構築された区分)への服従を「自然な運命として愛する」ことに動機づける論理として明示的に理論化されている──Choice≠Decision/doxa前濾過の議論を強化する一節。 p.115: 身体への関係を通して性的同一性を構成する心的性向の議論。身体運動の(生物学的にではなく)社会的な性別化。直線/曲線の対立が支配/服従関係を象徴化する原理になっている。挨拶における恭順(頭を下げる、視線を下げる)/優位(見下ろす、頭を上げる)のジェスチャー──支配者/被支配者の間の身体的コード化。
p.132 【illusio、再確認】
「将来に対する賭けのすべてを諦めて、魅惑、illusio〔遊びの中にあること=錯覚〕とすっかり縁を切る者…」 → illusioが「遊びの中にあること=錯覚」として定式化されている──信仰と身体章冒頭(p.107)のゲーム感覚論と、この実践の論理章の記述が同じillusio概念でつながっていることを確認。
p.133-135 (方法論的議論、要点のみ)
分析者が儀礼的実践を一望のもとに全体化して見る特権は、実際にはインフォーマントの誰一人として持たない視点であり、演技者の視点と観客の視点の混同という誤謬に由来する──共観図式(vue synoptique)批判。デカルトのuno intuitu et total simul(一挙に全体を直観すること)への言及、正弦曲線図(カレンダー的図式)による継起関係の空間化。実践的把握は常に一部分的・状況依存的(“univers de discours”ごとに異なる)。
探索状況のまとめ
- 「[(habitus)(capital)]+field=practice」の代数的formulaは、この3冊(第三章・第四章冒頭部分)の範囲内では発見できなかった──p.82-135まで読了した限り、Bourdieuは一貫して散文的定式(「ハビトゥスと場との出会い」「ゲーム感覚」等)で語っており、Distinction由来とされる代数式そのものは登場していない。実践の論理章の残り(p.136-161、未読了)に出てくる可能性はまだ残っているが、優先度は下がる。
- 残り未読了: pdf3のp.136-161(実践の論理章の後半)。ここにdoxa/illusioのさらなる展開や、hysteresis の具体例(移民労働者等)が出てくる可能性がある。
未処理・優先事項
- Distinctionの「[(habitus)(capital)]+field=practice」公式は本書(『実践感覚』)には基本的に出てこない可能性が高い(別著作の公式のため)──p.94-104およびdoxa/illusio章で見つからなければ「この3冊には含まれていない」と結論する。
- 続けてp.94-104(第三章末尾、信仰と身体章冒頭)、pdf2残り(p.108-115, 118-127)、pdf3残り(p.130-161、doxa/illusio定義を探索)を読み進める。
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