CABA-03-N-01|Development Trace

Nishida|Basho Gravity

このファイルは、CABA-03-N-01|西田幾多郎、〈場所〉の重力 v1.0 に至るまでの採掘記録である。

以下の v0.1–v0.6 は、旧版として訂正・統合するために保存するのではない。

読み、書き、監査し、読みなおすなかで、

何が現れ、何が強すぎ、何が撤回され、何がOPENになったか。

そのTraceを残す。

したがって、各version間の不一致は解消しない。

後のversionによって、前のversionを上書きもしない。

Draft ≠ Error
Revision ≠ Erasure
Development Trace ≠ Public Record

公開版は別に置く。

Public Record
CABA-03-N-01_Nishida_Basho-Gravity.md

このDevelopment Traceでは、同じ札が、Encounterのあとで違う仕事を始める過程そのものを保存する。


西田幾多郎、〈場所〉の重力

── 背負わされた〈場〉と〈所〉と〈処〉

第一部|西田幾多郎篇

〈処〉なき〈場所〉における統一作用の弁証法

v0.1


0|坑口──「場所」を掘ったら、「処」がいなかった

西田幾多郎の〈場所〉を読みなおしている。

最初から、西田を批判するつもりだったわけではない。

むしろ逆だった。

「場所」という語が気になった。

それだけだった。

ところが掘っているうちに、別の字が気になりはじめた。

所。

そして、

処。

さらに、

場。

どれも「ところ」と読める。

しかし、同じ仕事をしているようには見えない。

いま、仮にこう置いている。

所|ある

処|おる

場|おこる

これは定義ではない。

字源論でもない。

存在論でもない。

西田哲学を三つに分解するための図式でもない。

ただの監査札である。

この三枚を持って西田の〈場所〉へ入ってみる。

すると奇妙なことが起きる。

西田の〈場所〉には、いろいろなものがある。

主観がある。

客観がある。

我がある。

非我がある。

作用がある。

統一がある。

矛盾がある。

有がある。

無がある。

やがて、行為がある。

身体がある。

歴史がある。

世界がある。

生命もある。

だから、西田に〈処〉がない、と簡単に言うことはできない。

それでも、何かが気になる。

〈おる〉は、どこへ行ったのか。

この問いから始めたい。


1|経験するのは、誰か

『善の研究』は、純粋経験から始まる。

西田は「経験する」ことを、事実をそのまま知ることとして出発させる。

色を見る。

音を聞く。

その刹那には、

「外物が私に作用した」

とも、

「私がそれを感じた」

とも、

まだ判断していない。

そこには、まだ主も客もない。

主観と客観があって、その二つが接触して経験が生まれるのではない。

まず経験がある。

主と客は、そのあとに分かれる。青空文庫

これは面白い。

少なくとも、

誰がしたのか

を始発駅にしていない。

では、誰が経験するのか。

問いそのものが少し遅れている。

ここまではいい。

ところが、西田は「経験した。以上」とは言わない。

純粋経験には、最初から別の仕事が与えられている。

統一する。


2|主体を消したら、統一作用が現れた

純粋経験は、ばらばらな感覚の粒ではない。

西田は、現在の意識が過去の意識と結びつき、より大きな意識体系のなかへ位置づけられることを、統一作用として記述する。

鐘の音を聞く。

それを「鐘の音だ」と判断する。

そこには、現在の意識と先行する経験との結合がある。

意味も判断も、統一作用の仕事になる。

しかも分化や発展さえ、「更に大なる統一」の作用として読まれる。青空文庫

ここで奇妙なことが起きる。

経験する主体を始発駅から外したはずなのに、

経験そのものが働きはじめる。

統一する。

分化する。

発展する。

判断する。

実現する。

主体はいない。

しかし、作用がある。

では、この作用は誰の作用なのか。

西田の答えは、簡単ではない。

というより、「誰の」という問いそのものを退ける。

『善の研究』では、意識が誰かに所有されていなければならない、という考えまで疑われる。

意識に必要なのは、所有者ではなく統一だ。

ここでは、

誰かが統一する

のではない。

統一作用が働く。 青空文庫

主体を消した穴に、

統一作用が現れた。


3|統一作用は、何を統一するのか

では、統一作用は何を統一しているのか。

これが困る。

掘れば掘るほど増える。

感覚と意味。

現在と過去。

思惟と意志。

主観と客観。

精神と自然。

個物と体系。

そして、差異と衝突。

西田にとって統一は、単に同じものを一つにまとめることではない。

違うものが違うものとして現れるためにも、その根底には何らかの統一が必要だと考える。

赤が赤として現れるには、赤ではないものとの差異がいる。

しかし、比較も区別もできないほど完全に無関係なら、差異としてさえ現れない。

だから差異の根底にも統一がある。

さらに衝突も、統一の外へは逃げない。

衝突そのものが、より大きな統一へ向かう契機として読まれる。青空文庫

これは強い。

何を投げても食べる。

一致も食べる。

差異も食べる。

衝突も食べる。

ZUREまで食べる。

統一作用は、かなり大きな胃袋である。


4|主客問題は、どう消えたのか

ここで主客問題をもう一度見る。

西田は、主観と客観を二つの独立した実体として置いて、それをあとから橋で結ぼうとはしない。

その意味では、主客二元論を始発駅にしない。

ところが『善の研究』では、主観側の統一と自然側の統一について、さらに強いことを言う。

西田は、

主観的統一と自然の客観的統一力は、もともと同じである

と考える。青空文庫

つまり、

主観と客観をあとから一致させるのではない。

両方を、同じ統一作用の二つの現れとして読む。

橋を架けたのではない。

両岸を同じ地盤からつくった。

これなら、主客問題はかなり消える。

しかし別の問いが残る。

なぜ、その地盤は、

統一

でなければならなかったのか。


5|「真」がやってくる

統一を掘ると、「真」が出てくる。

『善の研究』で西田は、真理を、経験の統一として考える。

しかも、

小なる統一から大なる統一へ。

そして「真正な自己」を、統一作用そのものとして語る。青空文庫

ここで統一には、方向が生まれる。

単に、

違う。

ではない。

単に、

変わった。

でもない。

より大きな統一へ。

より深い自己へ。

真へ。

だから、ここで一枚、監査札を置く。

真|何を足す?

「真などない」と言いたいのではない。

それでは、「非真」を新しい終着駅にするだけだ。

そうではなく、

この記述に「真」は、いつ必要になるのか。

それだけを問う。

Encounterした。

ZUREた。

応答した。

自己のあり方が変わった。

ここまでを記述するために、

「真の自己」

は必要だろうか。

まだ分からない。

だから、

真|?

として置いておく。


6|統一作用は、生命だけのものではない

ここで「有機体」が気になってくる。

統一作用は、意識だけの話なのか。

そうではない。

『善の研究』で西田は、統一を自然にも見る。

無機物の結晶から動植物の有機体へ。

統一は生命に突然現れるのではなく、自然を横断している。

一方で、有機体、とりわけ動物になると「内面的統一」「自己」が前景化し、さらに精神の領域で「真の自己」が問題になる。青空文庫

したがって、

物質|統一なし

生命|統一あり

とは切れない。

むしろ西田では、

無機物|統一

有機体|統一

意識|統一

自己|統一

真の自己|統一

と、統一が全部を横断する。

ここで、別の疑問が生まれる。

生命に固有なのは、統一なのか。

それとも、

おること

なのか。


7|〈処〉という監査札

ここで初めて〈処〉を置く。

処|おる

これも定義ではない。

生命だけが〈処〉を持つ、と決めたわけでもない。

ただ、生きものを見ていると、

「ある」だけでは記述しきれないものが出てくる。

止まる。

休む。

待つ。

向く。

近づく。

避ける。

歩く。

また止まる。

そこには、

どう、そこにいるか

がある。

Locus-Manner。

だから、

おる ≠ 静止

である。

生きものは、止まっていてもNextにさらされている。

向きがある。

前後があるかもしれない。

Encounterによって、その〈おる〉は変わる。

同じ場所にいても、

同じようには、おられないことがある。

では、西田の統一作用は、

この〈おる〉をどう記述しているのだろう。


8|〈場所〉が現れる

1926年、西田は「場所」を書く。

ここで重要なのは、〈場所〉を単なる統一作用の別名にしないことだ。

西田はむしろ、

関係を統一するもの

と、

その関係が於てあるもの

を区別しようとする。

つまり、

統一すること

と、

統一するものが於てあること

は同じではない。

そして、西田の問いは、

「有るものは何かに於てなければならぬ」

という方向へ進む。

ここで〈場所〉が仕事を始める。

主観と客観。

我と非我。

作用。

関係。

矛盾。

有と無。

それらが、

何に於てあるのか。

『善の研究』で巨大化した統一作用だけでは足りなくなる。

統一作用そのものにも、

於てある場所

が必要になる。


9|〈場所〉は統一作用の避難所か

ここで、少し誘惑がある。

西田は統一作用を〈場所〉へ逃がした。

そう言いたくなる。

しかし、まだ早い。

〈場所〉は統一作用からの避難所ではない。

むしろ、統一作用そのものを問いなおすために現れた可能性がある。

統一するもの ≠ 統一が於てあるもの。

西田自身が、ここでWORKを分けている。

これは重要だ。

ところが、その〈場所〉がやがて太りはじめる。

主客も背負う。

作用も背負う。

矛盾も背負う。

有と無まで背負う。

そして後には、弁証法まで〈場所〉で働きはじめる。

だから問いたい。

〈場所〉は、何を背負わされたのか。

統一か。

主客か。

真か。

弁証法か。

生命か。

そして、

〈処〉か。


10|「於てある」と「おる」

ここが、この第一部の中心になる。

西田の〈場所〉では、

Xが、場所に於てある。

われわれの〈処〉では、

おる。

似ている。

しかし、同じだろうか。

於てある ≠ おる?

「於てある」と言うと、

あるもの

と、

それがある場所

を、いったん分けることができる。

では、生きものが「おる」ときも、同じだろうか。

冬一郎がおる。

身体。

地面。

匂い。

風。

向き。

さっき通った道。

これから行くかもしれない方向。

そこへ来た誰か。

そこで起きたEncounter。

どこまでが冬一郎で、

どこからが冬一郎の「場所」なのか。

それを先に切り分ける必要があるのだろうか。

むしろ、

所が作をつくり、作が所をつくる。

その都度の〈おる〉において、

Locusそのものが更新されているのではないか。

だとすれば、

西田の〈場所〉が問う

何に於てあるか

と、

〈処〉が露出させる

どう、おるか

は、

近いところを歩きながら、

同じ仕事をしていない。


11|Encounterは統一を必要とするか

さらに一枚。

遇|あう

Encounterする。

ここにも、最初から統一を置く必要があるだろうか。

誰かに遇う。

何かに遇う。

応答する。

しかし、

応答 ≠ 照応。

応答はZUREる。

聞き違える。

黙る。

遅れる。

向きを変える。

立ち去る。

翌日になって効く。

Encounterした二者が一致する必要はない。

Encounterによって「真の自己」が現れる必要もない。

新しい意味が生まれなくてもいい。

Encounterには、成果報告書はいらない。

遇|あう

応|ZUREる

処|おる

これだけで記述できる局面がある。

そのとき、

統一|いつ必要?

という問いが出てくる。

Encounterの前から必要なのか。

Encounterしている最中に必要なのか。

あとからできるのか。

最後までなくてもいいのか。


12|散歩は統一されているか

散歩する。

目的地はない。

もちろん、結果はいろいろある。

運動した。

犬に遇った。

匂いを嗅いだ。

橋の下へ行った。

疲れた。

帰った。

あとからなら、

今日の散歩

として一つにまとめられる。

しかし、歩いている最中に、

そのWholeはすでに存在していただろうか。

次の角で何が起きるか、まだ知らない。

どこで止まるかも知らない。

誰に遇うかも知らない。

それでも歩いている。

だから、

歩いたら、散歩になった。

道程はあとからできる。

ならば、

統一も、あとからできてはいけないのか。

あるいは、

最後まで統一されなくてもいいのか。

散歩はWholeにならなくても、

散歩なのではないか。


13|弁証法は散歩できるか

ここで弁証法へ戻る。

西田は後に、自らの弁証法を「場所的弁証法」と呼ぶ。

主語を始発駅にする弁証法から離れ、

弁証法が働くところそのものを問いなおす。

これは大きな移動だった。

しかし、

弁証法そのものは残った。

差異。

否定。

矛盾。

非連続。

それらは放置されず、

何らかの形成へ、

自己限定へ、

世界へ、

働きへ、

運ばれていく。

そこで問う。

弁証法は散歩できるか。

始発駅をなくすだけでは足りない。

終着駅を固定しないだけでも足りない。

歩くことそのものに、

解決義務

が残っていないだろうか。

Encounterしたら、何かが成立しなければならない。

応答したら、新しい自己が生まれなければならない。

矛盾したら、何かへ進まなければならない。

ZUREたら、より大きなWholeへ回収されなければならない。

もしそうなら、

それは散歩ではなく、

まだ運行なのかもしれない。


14|〈処〉なき〈場所〉

だから、

〈処〉なき〈場所〉

とは、西田に〈処〉が欠けているという意味ではない。

むしろ逆である。

〈処〉がしていたかもしれない仕事を、

〈場所〉が背負ってはいないか。

生命。

身体。

向き。

止まること。

休むこと。

待つこと。

Encounterすること。

ZUREること。

どう、そこにおるか。

これらが、

「於てある」

という強力な論理の背後へ退いてはいないか。

まだ分からない。

だから、これは結論ではない。

監査である。

所|ある

処|おる

場|おこる

この三枚を、西田の〈場所〉へ持ち込む。

〈場所〉のなかで、

何が「ある」のか。

誰が「おる」のか。

何が「おこる」のか。

そして、

それらを一つの〈場所〉に背負わせなければならないのか。


15|坑道は閉じない

西田は主客を始発駅にしなかった。

これは重要だった。

経験する「私」を始発駅にすることも疑った。

統一する主体を外に置くことも疑った。

そして、

統一作用

を掘った。

さらに、

その統一作用が於てある

〈場所〉

を掘った。

その〈場所〉へ、

弁証法を持ち込んだ。

だから、この仕事は西田を否定するためのものではない。

西田が掘った坑道を、

もう少し掘る。

ただし、

統一へ急がない。

真へ急がない。

弁証法へ急がない。

まず、

おる。

そして、

遇う。

応答する。

ZUREる。

また、おる。

そのとき〈場所〉は、

まだ必要だろうか。

〈処〉は、

どこにあるだろうか。

あるいは――

〈処〉は、「ある」のだろうか。

処る。

それだけなのかもしれない。


Development Notes|第一部

〈場所〉 ≠ 〈処〉

於てある ≠ おる?

Experience ≠ Encounter ?

Unity|When?

True|What does it add?

Subject / Object|When needed?

Encounter|Unity required?

Response ≠ Correspondence

ZURE|No obligation to resolve

〈処〉なき = absence? / backgrounding? / carried by 〈場所〉?

OPEN


西田幾多郎、〈場所〉の重力

── 背負わされた〈場〉と〈所〉と〈処〉

第一部|西田幾多郎篇

〈処〉なき〈場所〉における統一作用の弁証法

v0.2


0|坑口──「場所」には、処がない

西田幾多郎の〈場所〉を読みなおしている。

最初から、西田を批判するつもりだったわけではない。

「場所」という語が気になった。

それだけだった。

ところが掘っているうちに、別の字が気になりはじめた。

所。

そして、

処。

さらに、

場。

どれも「ところ」に近い。

しかし、同じ仕事をしているようには見えない。

いま、仮にこう置いている。

所|ある

処|おる

場|おこる

これは定義ではない。

字源論でもない。

存在論でもない。

西田哲学を三つに分解する図式でもない。

ただの監査札である。

ところで。

「場所」という字には、

場と所がある。

処はない。

もちろん、これは議論ではない。

ただの字面である。

だが、坑道というものは、こういう石ころを拾ったところから始まることがある。

西田の〈場所〉には、実にいろいろなものが入っている。

主観。

客観。

我。

非我。

作用。

統一。

矛盾。

有。

無。

やがて身体が入り、行為が入り、歴史が入り、世界が入る。

だから、

西田には〈処〉がない。

と簡単に言って終わることはできない。

それでも気になる。

〈おる〉は、どこへ行ったのか。

ここから掘る。


1|経験するのは、誰か

『善の研究』は、純粋経験から始まる。

西田は「経験する」ことを、事実をそのまま知ることから考える。

色を見る。

音を聞く。

その刹那には、

「外物が私に作用した」

とも、

「私がそれを感じた」

とも、

まだ判断していない。

そこには、まだ主も客もない。

主観と客観が先にあって、その二つが接触して経験が生まれるのではない。

まず経験がある。

主と客は、そこから分かれる。

青空文庫『善の研究』

これは面白い。

少なくとも、

誰がしたのか

を始発駅にしていない。

では、

誰が経験するのか。

この問い自体が、少し遅れている。

ところが西田は、

経験した。以上。

とは言わない。

純粋経験には、すでに別の仕事がある。

統一する。


2|主体を消した穴に、統一作用が現れた

純粋経験は、ばらばらな感覚の粒ではない。

西田にとって、具体的な意識には統一がある。

現在の意識が先行する経験と結びつく。

感覚が意味をもつ。

判断が生まれる。

意識が分化する。

そして発展する。

そこに、

統一作用

が働く。

しかも、この統一作用は、外からやってきた主体が意識内容をまとめる操作ではない。

誰かが統一する

のではなく、

統一作用が働く。

主体を始発駅から外した。

すると、

統一作用

が現れた。

ここで一枚、札を置く。

主体|?

統一作用|?

誰が経験するのか。

ではなく、

主体を消したあと、何が主体の仕事をしているのか。


3|統一作用は、何を統一するのか

では、統一作用は何を統一しているのか。

掘れば掘るほど増える。

感覚と意味。

現在と過去。

思惟と意志。

主観と客観。

精神と自然。

個物と体系。

そして、

差異と衝突。

西田の統一は、単に同じものを一つにまとめることではない。

違うものが違うものとして現れるためにも、比較と区別を可能にする統一がいる。

さらに衝突も、統一の外には置かれない。

衝突さえ、より大きな統一へ向かう契機として読まれる。

統一作用は強い。

一致を食べる。

差異も食べる。

衝突も食べる。

ZUREまで食べる。

統一作用は、かなり大きな胃袋である。


4|主客問題は、どう消えたのか

西田は、主観と客観を二つの独立した実体として置いて、それをあとから橋で結ぼうとはしない。

主客を始発駅にしない。

これは重要である。

しかも『善の研究』では、主観側の統一と自然側の統一力を、根本的には同じものとして捉える。

つまり、

主観|客観

をあとから一致させるのではない。

両方を、同じ統一の働きから読む。

橋を架けるのではなく、

両岸を同じ地盤からつくる。

これなら主客問題はかなり消える。

しかし、別の問いが残る。

なぜ、その地盤は「統一」でなければならないのか。

主客問題を解いたら、

統一Problem

が残った。


5|「真」がやってくる

統一を掘ると、

真

が出てくる。

『善の研究』では、真理を知ることも経験の統一と結びつく。

小なる統一から、

大なる統一へ。

そして「真の自己」も統一の語彙で語られる。

ここで統一に、向きが生まれる。

単に、

違う。

ではない。

単に、

変わった。

でもない。

より大きな統一へ。

より真なるものへ。

そこで監査札を置く。

真|何を足す?

「真などない」と言いたいのではない。

それでは「非真」を新しい終着駅にするだけだ。

そうではなく、

この記述に「真」は、いつ必要になるのか。

Encounterした。

ZUREた。

応答した。

自己のあり方が変わった。

ここまでを記述するために、

「真の自己」

は必要なのか。

真|?

まだ開けておく。


6|統一は生命だけの仕事ではない

では、統一作用は意識だけの話なのか。

そうでもない。

西田は自然にも統一を見る。

無機物の結晶から、

動植物の有機体へ。

さらに精神へ。

統一は生命に突然出現するのではない。

一方、有機体、とりわけ動物になると、「内面的統一」や「自己」が前景化し、精神において「真の自己」が問題になる。

だから、

物質|統一なし

生命|統一あり

とは切れない。

むしろ、

無機物|統一

有機体|統一

意識|統一

自己|統一

真の自己|統一

と、統一が横断する。

すると別の疑問が出る。

生命に固有なのは、本当に「統一」なのか。

ここで、

処

が気になってくる。


7|処|おる

仮に置く。

処|おる

定義ではない。

生命だけが〈処〉を持つ、と決めたわけでもない。

ただ、生きものを見ていると、

ある

だけでは記述しきれないものが出てくる。

止まる。

休む。

待つ。

向く。

近づく。

避ける。

歩く。

また止まる。

そこには、

どう、そこにおるか

がある。

Locus-Manner。

しかも、

おる ≠ 静止

である。

生きものは止まっていても、向きを失わない。

Encounterにさらされている。

Nextが来るかもしれない。

何かにEncounterすれば、同じところにいても〈おる〉は変わりうる。

では西田の統一作用は、

この〈おる〉をどう記述しているのか。


8|〈場所〉が現れる

1926年、西田は「場所」を書く。

ここで注意したい。

〈場所〉は統一作用の別名ではない。

むしろ西田は、

関係を統一するもの

と、

その関係が於てあるもの

を分けようとする。

統一すること。

統一するものが於てあること。

これは同じ仕事ではない。

そして、

有るものは何かに於てなければならぬ

という問いが前景化する。

統一作用がある。

では、

その統一作用は、何に於てあるのか。

〈場所〉が現れる。

ここで西田自身が、一度WORKを分けている。

『善の研究』で何でも食べそうになった統一作用に対して、

統一すること ≠ それが於てあること

を露出させた。

〈場所〉は最初から、UNITY GRAVITYの単純な肥大化だったわけではない。

むしろ、

統一を監査するために開いた坑道

だった可能性がある。


9|〈場所〉は一枚ではない

しかも、西田の〈場所〉は一枚ではない。

有が於てある場所。

意識の野。

無の場所。

そして絶対無の場所。

〈場所〉という一枚の容器に、すべてを放り込んだわけではない。

〈場所〉そのものが掘り下げられていく。

だから、

〈場所〉が何を背負ったか

を問うなら、

同時に、

どの〈場所〉が、何を背負ったのか。

を問わなければならない。

西田が参照するプラトンの χώρα も、この地点では気になる。

生成が「どこで」生じるのか。

受け取るもの。

生じるもの。

場所。

しかし、ここから直ちに、

χώρα = 場|おこる

とはしない。

採掘地点として置くだけにする。

場|おこる?


10|弁証法を〈場所〉に食わせる

西田はやがて弁証法を捨てるのではなく、

場所的弁証法

へ進む。

ヘーゲルを単純に捨てたのでもない。

弁証法をやめたのでもない。

むしろ、

弁証法が働くところを変える。

主語を始発駅にする構文を切り、

弁証法を〈場所〉へ置きなおす。

いや、

弁証法を〈場所〉に食わせる。

その結果、〈場所〉はますます働きはじめる。

矛盾。

否定。

限定。

形成。

歴史。

世界。

〈場所〉は単なる「於てあるところ」ではなくなる。

では、

〈場所〉は、何を背負わされたのか。


11|西田は〈おる〉へ戻ってきたのか

ここで後期西田を避けてはいけない。

後期には、

身体がある。

環境がある。

歴史がある。

行為がある。

制作がある。

西田は現実を、

われわれがそこに於てあり、そこに於て働く所

として語る。

さらに、

作られたものから作るものへ

という構文が出てくる。

人が環境を作る。

環境もまた人を作る。

こちらが対象を形成する。

対象によってこちらも形成される。

青空文庫『絶対矛盾的自己同一』

ここまで来ると、

西田には〈おる〉がない、

とは言えない。

むしろ、

西田は〈処〉の手前まで来ている。

身体がある。

環境がある。

「於て」がある。

相互形成がある。

どう世界に関わっているかがある。

しかし――

「処」がない。


12|「所が作をつくり、作が所をつくる」は西田への反論ではない

ここでわれわれの、

所が作をつくり、作が所をつくる。

を西田への対案として出すと危ない。

後期西田は、すでにかなり近いところまで来ている。

作るものは、作られたものによって作られる。

主体は環境を形成し、環境も主体を形成する。

だから、

所が作をつくり、作が所をつくる

は、

西田から離れる言葉ではない。

むしろ、

西田自身が掘った坑道と近接している。

では違いはどこにあるのか。

ここで初めて問える。

於てあり、於て働く

と

おる

は、同じなのか。


13|働く手前

ここが重要になる。

西田は、

於てある

から、

於て働く

へ来た。

そして、

行為。

制作。

形成。

働き。

へ進む。

しかし、

〈おる〉には、働かなくてもいい時間がある。

休む。

待つ。

伏せる。

ぼんやりする。

止まる。

ただ、いる。

もちろん、

おる ≠ 静止

である。

向きがあるかもしれない。

前後があるかもしれない。

Encounterにさらされている。

それでも、

働く必要はない。

ここでCABAの監査札が入る。

Activity|必要?

Action|必要?

Work|必要?

西田は主体を始発駅から外した。

しかし、その先で、

働く

が巨大化してはいないか。

まだ決めない。

ただ問う。

なぜ、〈おる〉ではなく〈働く〉だったのか。


14|遇う

さらに一枚。

遇|あう

Encounterする。

ここにも、統一を最初から置く必要があるだろうか。

誰かに遇う。

何かに遇う。

応答する。

しかし、

応答 ≠ 照応。

応答はZUREる。

聞き違える。

遅れる。

黙る。

話を変える。

立ち去る。

翌日になって効く。

Encounterした二者が一致する必要はない。

Encounterによって「真の自己」が現れる必要もない。

意味が生まれなくてもいい。

自己形成の成果報告書もいらない。

遇|あう

応|ZUREる

処|おる

ここで止められる局面がある。

すると再び、

統一|いつ必要?

が戻ってくる。


15|散歩には成果がいらない

散歩する。

目的地はない。

結果はいろいろある。

運動した。

犬に遇った。

匂いを嗅いだ。

橋の下へ行った。

疲れた。

帰った。

あとからなら、

今日の散歩

として一つにまとめられる。

しかし歩いている最中に、

そのWholeはすでにあっただろうか。

次の角で何が起こるか知らない。

誰に遇うかも知らない。

どこで止まるかも知らない。

それでも歩いている。

歩いたら、散歩になった。

道程はあとからできる。

ならば、

統一もあとからできてはいけないのか。

あるいは、

最後まで統一されなくてもいいのか。

散歩はWholeにならなくても、

散歩なのではないか。


16|弁証法は散歩できるか

ここで弁証法へ戻る。

西田は始発駅をかなり壊した。

主客を始発駅にしない。

主体を始発駅にしない。

後期には、終着駅も単純には固定しない。

歴史的世界は作られながら作る。

現在から現在へ。

生成は続く。

だから、

西田には始発駅と終着駅がある

だけでは監査にならない。

もっと奥を見る。

運動そのものに、解決義務が残っていないか。

Encounterしたら、

何かが成立しなければならないのか。

応答したら、

新しい自己にならなければならないのか。

矛盾したら、

何かを形成しなければならないのか。

ZUREたら、

より大きなWholeへ回収されなければならないのか。

そこで問う。

弁証法は散歩できるか。

避難所では散歩できない。

始発駅を壊すだけでは足りない。

終着駅を固定しないだけでも足りない。

散歩には、

解決義務がない。


17|だけど、「処」がなかった

ここまで来ると、

〈処〉なき〈場所〉

の意味も変わる。

これは、

西田には身体がなかった、

という意味ではない。

生命がなかった、

という意味でもない。

環境がなかった、

という意味でもない。

Encounterがなかった、

とも言えない。

西田は、

〈処〉の手前まで来ていた。

身体があった。

環境があった。

於てあることがあった。

於て働くことがあった。

作ることと、作られることがあった。

歴史があった。

世界があった。

だけど、「処」がなかった。

〈処〉がなかったからといって、

〈おる〉ことがなかったわけではない。

むしろ、

〈おる〉は、そこら中に露出しかけている。

だから問いたい。

〈おる〉の仕事を、

西田のどの語彙が背負っていたのか。

場所か。

身体か。

作用か。

行為か。

それとも、

そのどれでもないのか。


18|〈処〉なき?〈場所〉

ここで最初の三枚へ戻る。

所|ある

処|おる

場|おこる

西田の〈場所〉は、

この三つを分けなかった。

だから間違った、

とは言わない。

西田は、

〈場所〉

という切り方をした。

われわれはいま、

所|処|場

と切りなおしている。

対象が違うのではない。

切り方が違う。

だから、

〈処〉なき = 〈おる〉なき

ではない。

Difference ≠ Deficiency.

「処」がなかった。

それだけである。

そして、その差異が、

次の坑道に効く。


19|OPEN──西田幾多郎に遇う

西田は主客を始発駅にしなかった。

経験する「私」を始発駅にすることも疑った。

統一作用を掘った。

その統一作用が於てある〈場所〉を掘った。

〈場所〉そのものをさらに掘った。

そこへ弁証法を入れた。

身体を入れた。

歴史を入れた。

行為を入れた。

作るものと作られたものを相互に働かせた。

そこまで来た。

だけど、「処」がなかった。

では、

なぜ〈おる〉ではなく、

〈於てある〉

だったのか。

なぜ〈おる〉ではなく、

〈働く〉

だったのか。

なぜEncounterは、

統一

へ向かわなければならないのか。

そもそも、

向かわなければならないのか。

まだ分からない。

だから、西田を解決しない。

西田に遇う。

ZUREる。

そして、

もう少し此処におる。

処?


Development Notes|v0.2

〈場所〉 ≠ 〈処〉

〈処〉なき ≠ 〈おる〉なき

Difference ≠ Deficiency

於てある ≠ おる?

於て働く ≠ おる?

Experience ≠ Encounter ?

Unity|When?

True|What does it add?

Subject / Object|When needed?

Encounter|Unity required?

Response ≠ Correspondence

ZURE|No obligation to resolve

Action / Activity / Work|When needed?

〈処〉|absence? / backgrounded? / distributed?

〈場所〉|what did it carry?

OPEN


西田幾多郎、〈場所〉の重力

── 背負わされた〈場〉と〈所〉と〈処〉

第一部|西田幾多郎篇

〈処〉なき〈場所〉における統一作用の弁証法

v0.3


0|坑口──「場所」には、処がない

西田幾多郎の〈場所〉を読みなおしている。

最初から、西田を批判するつもりだったわけではない。

「場所」という語が気になった。

それだけだった。

ところが掘っているうちに、別の字が気になりはじめた。

所。

そして、

処。

さらに、

場。

どれも「ところ」に近い。

しかし、同じ仕事をしているようには見えない。

いま、仮にこう置いている。

所|ある

処|おる

場|おこる

これは定義ではない。

字源論でもない。

存在論でもない。

西田哲学を三つに分解する図式でもない。

ただの監査札である。

ところで。

「場所」という字には、

場と所がある。

処はない。

もちろん、これは議論ではない。

ただの字面である。

だが、坑道というものは、こういう石ころを拾ったところから始まることがある。

西田の〈場所〉には、実にいろいろなものが入っている。

主観。

客観。

我。

非我。

作用。

統一。

矛盾。

有。

無。

やがて身体が入り、行為が入り、歴史が入り、世界が入る。

だから、

西田には〈処〉がない。

と簡単に言って終わることはできない。

それでも気になる。

〈おる〉は、どこへ行ったのか。

ここから掘る。


1|経験するのは、誰か

『善の研究』は、純粋経験から始まる。

西田は「経験する」ことを、事実をそのまま知ることから考える。

色を見る。

音を聞く。

その刹那には、

「外物が私に作用した」

とも、

「私がそれを感じた」

とも、

まだ判断していない。

そこには、まだ主も客もない。

主観と客観が先にあって、その二つが接触して経験が生まれるのではない。

まず経験がある。

主と客は、そこから分かれる。

青空文庫『善の研究』

これは面白い。

少なくとも、

誰がしたのか

を始発駅にしていない。

では、

誰が経験するのか。

この問い自体が、少し遅れている。

ところが西田は、

経験した。以上。

とは言わない。

純粋経験には、すでに別の仕事がある。

統一する。


2|主体を消した穴に、統一作用が現れた

純粋経験は、ばらばらな感覚の粒ではない。

西田にとって、具体的な意識には統一がある。

現在の意識が先行する経験と結びつく。

感覚が意味をもつ。

判断が生まれる。

意識が分化する。

そして発展する。

そこに、

統一作用

が働く。

しかも、この統一作用は、外からやってきた主体が意識内容をまとめる操作ではない。

誰かが統一する

のではなく、

統一作用が働く。

主体を始発駅から外した。

すると、

統一作用

が現れた。

ここで一枚、札を置く。

主体|?

統一作用|?

誰が経験するのか。

ではなく、

主体を消したあと、何が主体の仕事をしているのか。


3|統一作用は、何を統一するのか

では、統一作用は何を統一しているのか。

掘れば掘るほど増える。

感覚と意味。

現在と過去。

思惟と意志。

主観と客観。

精神と自然。

個物と体系。

そして、

差異と衝突。

西田の統一は、単に同じものを一つにまとめることではない。

違うものが違うものとして現れるためにも、比較と区別を可能にする統一がいる。

さらに衝突も、統一の外には置かれない。

衝突さえ、より大きな統一へ向かう契機として読まれる。

統一作用は強い。

一致を食べる。

差異も食べる。

衝突も食べる。

ZUREまで食べる。

統一作用は、かなり大きな胃袋である。


4|主客問題は、どう消えたのか

西田は、主観と客観を二つの独立した実体として置いて、それをあとから橋で結ぼうとはしない。

主客を始発駅にしない。

これは重要である。

しかも『善の研究』では、主観側の統一と自然側の統一力を、根本的には同じものとして捉える。

つまり、

主観|客観

をあとから一致させるのではない。

両方を、同じ統一の働きから読む。

橋を架けるのではなく、

両岸を同じ地盤からつくる。

これなら主客問題はかなり消える。

しかし、別の問いが残る。

なぜ、その地盤は「統一」でなければならないのか。

主客問題を解いたら、

統一Problem

が残った。


5|「真」がやってくる

統一を掘ると、

真

が出てくる。

『善の研究』では、真理を知ることも経験の統一と結びつく。

小なる統一から、

大なる統一へ。

そして「真の自己」も統一の語彙で語られる。

ここで統一に、向きが生まれる。

単に、

違う。

ではない。

単に、

変わった。

でもない。

より大きな統一へ。

より真なるものへ。

そこで監査札を置く。

真|何を足す?

「真などない」と言いたいのではない。

それでは「非真」を新しい終着駅にするだけだ。

そうではなく、

この記述に「真」は、いつ必要になるのか。

Encounterした。

ZUREた。

応答した。

自己のあり方が変わった。

ここまでを記述するために、

「真の自己」

は必要なのか。

真|?

まだ開けておく。


6|統一は生命だけの仕事ではない

では、統一作用は意識だけの話なのか。

そうでもない。

西田は自然にも統一を見る。

無機物の結晶から、

動植物の有機体へ。

さらに精神へ。

統一は生命に突然出現するのではない。

一方、有機体、とりわけ動物になると、「内面的統一」や「自己」が前景化し、精神において「真の自己」が問題になる。

だから、

物質|統一なし

生命|統一あり

とは切れない。

むしろ、

無機物|統一

有機体|統一

意識|統一

自己|統一

真の自己|統一

と、統一が横断する。

すると別の疑問が出る。

生命に固有なのは、本当に「統一」なのか。

ここで、

処

が気になってくる。


7|処|おる

仮に置く。

処|おる

定義ではない。

生命だけが〈処〉を持つ、と決めたわけでもない。

ただ、生きものを見ていると、

ある

だけでは記述しきれないものが出てくる。

止まる。

休む。

待つ。

向く。

近づく。

避ける。

歩く。

また止まる。

そこには、

どう、そこにおるか

がある。

Locus-Manner。

しかも、

おる ≠ 静止

である。

生きものは止まっていても、Encounterにさらされている。

何かが来るかもしれない。

向きを変えるかもしれない。

また歩くかもしれない。

同じところにいても、Encounterのあとには同じようには〈おられない〉ことがある。

では西田の統一作用は、

この〈おる〉をどう記述しているのか。


8|〈場所〉が現れる

1926年、西田は「場所」を書く。

ここで注意したい。

〈場所〉は統一作用の別名ではない。

むしろ西田は、

関係を統一するもの

と、

その関係が於てあるもの

を分けようとする。

統一すること。

統一するものが於てあること。

これは同じ仕事ではない。

そして、

有るものは何かに於てなければならぬ

という問いが前景化する。

統一作用がある。

では、

その統一作用は、何に於てあるのか。

〈場所〉が現れる。

ここで西田自身が、一度WORKを分けている。

『善の研究』で何でも食べそうになった統一作用に対して、

統一すること ≠ それが於てあること

を露出させた。

〈場所〉は最初から、UNITY GRAVITYの単純な肥大化だったわけではない。

むしろ、

統一そのものを問いなおすために開いた坑道

だった可能性がある。


9|〈場所〉は一枚ではない

しかも、西田の〈場所〉は一枚ではない。

有が於てある場所。

意識の野。

無の場所。

そして絶対無の場所。

〈場所〉という一枚の容器に、すべてを放り込んだわけではない。

〈場所〉そのものが掘り下げられていく。

だから、

〈場所〉が何を背負ったか

を問うなら、

同時に、

どの〈場所〉が、何を背負ったのか。

を問わなければならない。

西田が参照するプラトンの χώρα も、この地点では気になる。

生成が「どこで」生じるのか。

受け取るもの。

生じるもの。

場所。

しかし、ここから直ちに、

χώρα = 場|おこる

とはしない。

採掘地点として置くだけにする。

χώρα|?

場|おこる?


10|弁証法を〈場所〉に食わせる

西田はやがて弁証法を捨てるのではなく、

場所的弁証法

へ進む。

ヘーゲルを単純に捨てたのでもない。

弁証法をやめたのでもない。

むしろ、

弁証法が働くところを変える。

主語を始発駅にする構文を切り、

弁証法を〈場所〉へ置きなおす。

いや、

弁証法を〈場所〉に食わせる。

その結果、〈場所〉はますます多くの仕事を背負う。

矛盾。

否定。

限定。

形成。

歴史。

世界。

〈場所〉は単なる「於てあるところ」ではなくなる。

では、

〈場所〉は、何を背負わされたのか。


11|西田は〈処〉の手前まで来た

ここで後期西田を避けてはいけない。

後期には、

身体がある。

環境がある。

歴史がある。

行為がある。

制作がある。

西田は現実を、こう書く。

「我々がそこに於てあり、そこに於て働く所が、現実なのである。」

青空文庫『絶対矛盾的自己同一』

ここでは、

於てある

だけではない。

於て働く。

さらに、

作られたものから作るものへ

という構文が出てくる。

人が物を作る。

作られた物もまた人を作る。

こちらが対象を形成する。

対象によってこちらも形成される。

ここまで来ると、

西田には〈おる〉の問題がなかった、

とは言えない。

むしろ、

西田は〈処〉の手前まで来ている。

そして、もう一つ。

さきほどの一文で使われている字は、

所

である。

もちろん、字面だけで哲学は決まらない。

ただ、

坑口で拾った石ころが、

また落ちていた。


12|此処まで来た

さらに掘る。

すると、

此処

まで出てくる。

『絶対矛盾的自己同一』で西田は、

「我々はいつも此処にロードゥスがある、此処で踊れ」

と書く。

そして身体的なものを越えていくとしても、

此処から出立し、此処に戻り来る

ものでなければならない、とする。

同じ論文のなかに、

所

がある。

そして、

此処

がある。

だから、

「西田の文章には処という字がない」

とは言えない。

そんな話ではない。

問題は、

〈処〉という切り分けがない。

ということだ。

西田には、

此処

があった。

此処から出立する。

此処へ戻る。

身体がある。

環境がある。

働きがある。

此処まで来た。

だけど、

〈処〉は、まだ一枚の札にならない。


13|働く。それでも、おる。

ここで、西田の「働く」を狭く読んではならない。

西田の「働く」は、

労働することだけではない。

活動することだけでもない。

後期西田では、

見ること

そのものが「働く」と不可分になる。

見ることから働く。

働くことによって見る。

動物的生命においても、見ることと働くことは切り離されない。

だから、

休む。

待つ。

伏せる。

ぼんやりする。

そうしたことまで、西田の広い「働き」のなかで記述できる可能性がある。

ならば、

〈処〉を〈働く〉の反対側に置くことはできない。

働く ≠ おる

と、まだ言えない。

むしろ問うべきは、

〈おる〉は、働くことなのか。

〈おる〉は、作用なのか。

そして、

作用でさえないような〈おる〉は、ありうるのか。

ここで西田の側から反問することもできる。

「何もしない〈おる〉とは、本当に何もしていないのか。」

呼吸している。

見る。

聞く。

身体が環境に応じている。

ただ伏せている犬にも、世界との関わりがある。

ならば、

「おる」を「働く」から救い出したつもりで、

われわれが別の静的なGroundを作っているだけかもしれない。

だから、まだ決めない。

働く|?

作用|?

おる|?

CABAの札は、

西田をActivity Biasと判定するためではない。

どこまで広げれば、「働く」は〈おる〉まで食べられるのか。

それを監査するために置く。


14|「所が作をつくり、作が所をつくる」は反論ではない

ここで、われわれの別の坑道から出てきた一文を置く。

所が作をつくり、作が所をつくる。

これを西田への対案として置くと危ない。

後期西田は、

すでにかなり近いところまで来ている。

作るものは、

作られたものによって作られる。

主体は環境を形成し、

環境も主体を形成する。

だから、

所が作をつくり、作が所をつくる

は、

西田から離れる言葉ではない。

むしろ、

西田自身が掘った坑道と近接している。

ならば違いはどこにあるのか。

ここで改めて問う。

於てある

於て働く

おる

この三つは、

同じ仕事をしているのか。


15|遇う

さらに一枚。

遇|あう

Encounterする。

ここにも、

統一を最初から置く必要があるだろうか。

誰かに遇う。

何かに遇う。

応答する。

しかし、

応答 ≠ 照応。

応答はZUREる。

聞き違える。

遅れる。

黙る。

話を変える。

立ち去る。

翌日になって効く。

Encounterした二者が一致する必要はない。

Encounterによって「真の自己」が現れる必要もない。

意味が生まれなくてもいい。

自己形成の成果報告書もいらない。

遇|あう

応|ZUREる

処|おる

ここで止められる局面がある。

すると再び、

統一|いつ必要?

が戻ってくる。

Encounterの前か。

最中か。

あとか。

なぞりなおしたときか。

あるいは、

最後までなくてもいいのか。


16|散歩には成果がいらない

散歩する。

目的地はない。

結果はいろいろある。

運動した。

犬に遇った。

匂いを嗅いだ。

橋の下へ行った。

疲れた。

帰った。

あとからなら、

今日の散歩

として一つにまとめられる。

しかし歩いている最中に、

そのWholeはすでにあっただろうか。

次の角で何が起こるか知らない。

誰に遇うかも知らない。

どこで止まるかも知らない。

それでも歩いている。

歩いたら、散歩になった。

道程はあとからできる。

ならば、

統一もあとからできてはいけないのか。

あるいは、

最後まで統一されなくてもいいのか。

散歩はWholeにならなくても、

散歩なのではないか。


17|弁証法は散歩できるか

ここで弁証法へ戻る。

西田は始発駅をかなり壊した。

主客を始発駅にしない。

主体を始発駅にしない。

後期には、終着駅も単純には固定しない。

歴史的世界は、

作られながら作る。

現在から現在へ。

生成は続く。

だから、

西田には始発駅と終着駅がある

だけでは監査にならない。

もっと奥を見る。

運動そのものに、解決義務が残っていないか。

Encounterしたら、

何かが成立しなければならないのか。

応答したら、

新しい自己にならなければならないのか。

矛盾したら、

何かを形成しなければならないのか。

ZUREたら、

より大きなWholeへ回収されなければならないのか。

そこで問う。

弁証法は散歩できるか。

避難所では散歩できない。

始発駅を壊すだけでは足りない。

終着駅を固定しないだけでも足りない。

散歩には、

解決義務がない。


18|だけど、「処」がなかった

ここまで来ると、

〈処〉なき〈場所〉

の意味が変わる。

これは、

西田には身体がなかった、

という意味ではない。

生命がなかった、

という意味でもない。

環境がなかった、

という意味でもない。

Encounterがなかった、

とも言えない。

働きがなかった、

などとは到底言えない。

西田は、

〈処〉の手前まで来ていた。

身体があった。

環境があった。

於てあることがあった。

於て働くことがあった。

作ることと、作られることがあった。

歴史があった。

世界があった。

そして、

此処まであった。

此処から出立する。

此処へ戻ってくる。

だけど、「処」がなかった。

正確には、

〈処〉という独立した切り分けがなかった。

〈処〉がなかったからといって、

〈おる〉ことがなかったわけではない。

むしろ、

〈おる〉は、そこら中に露出しかけている。

だから問いたい。

〈おる〉の仕事を、

西田のどの語彙が背負っていたのか。

場所か。

所か。

身体か。

作用か。

働きか。

行為か。

それとも、

それらのあいだに分散していたのか。


19|切り方が違う

最初の三枚へ戻る。

所|ある

処|おる

場|おこる

西田は、

所|ある

処|おる

場|おこる

という三枚の札を置かなかった。

西田自身が区別しなかった、

という意味ではない。

西田はむしろ、

統一と於てあることを分け、

〈場所〉そのものにも複数の層を掘った。

ただ、

所|処|場という切り方では分けなかった。

西田は、

〈場所〉

という坑道を掘った。

われわれはいま、

その坑道を歩きながら、

所|処|場

という別の札を拾っている。

対象が違うのではない。

切り方が違う。

だから、

〈処〉なき ≠ 〈おる〉なき

である。

そして、

Difference ≠ Deficiency.

「処」がなかった。

それだけである。

だが、その差異が、

次のEncounterに効く。


20|OPEN──此処まで来て、なぜ〈処〉にならなかった?

西田は主客を始発駅にしなかった。

経験する「私」を始発駅にすることも疑った。

統一作用を掘った。

その統一作用が於てある〈場所〉を掘った。

〈場所〉そのものをさらに掘った。

弁証法を〈場所〉に食わせた。

身体を入れた。

環境を入れた。

歴史を入れた。

行為を入れた。

作るものと作られたものを、

相互に働かせた。

そして、

此処まで来た。

だけど、

〈処〉がなかった。

では、

なぜ〈おる〉ではなく、

〈於てある〉

だったのか。

なぜ〈おる〉ではなく、

〈働く〉

だったのか。

いや。

その問いさえ、

まだ早いかもしれない。

西田の〈働く〉のなかには、

すでに〈おる〉が入っているのかもしれない。

ならば、問いなおす。

〈おる〉は、〈働く〉に尽くされるのか。

そして、

Encounterは、

統一に尽くされるのか。

差異は、

Wholeに尽くされるのか。

まだ分からない。

だから、

西田を解決しない。

西田に遇う。

応答する。

ZUREる。

そして、

もう少し、

此処におる。

処?


Development Notes|v0.3

〈場所〉 ≠ 〈処〉

〈処〉なき ≠ 〈おる〉なき

〈処〉なき = philosophical vocabulary absent?

「処」という字がない ≠ 〈処〉という切り分けがない

此処|present

所|present

Difference ≠ Deficiency

於てある ≠ おる?

於て働く ≠ おる?

働く|how broad?

おる|作用?

作用でさえない〈おる〉?

Experience ≠ Encounter ?

Unity|When?

True|What does it add?

Encounter|Unity required?

Response ≠ Correspondence

ZURE|No obligation to resolve

Action / Activity / Work|When needed?

所|処|場 = Audit Cards, not Nishida’s distinctions

〈おる〉|backgrounded? distributed? already within 働く?

〈場所〉|what did it carry?

OPEN


西田幾多郎、〈場所〉の重力

── 背負わされた〈場〉と〈所〉と〈処〉

第一部|西田幾多郎篇

〈処〉なき〈場所〉における統一作用の弁証法

v0.4


0|坑口──「場所」には、処がない

西田幾多郎の〈場所〉を読みなおしている。

最初から、西田を批判するつもりだったわけではない。

「場所」という語が気になった。

それだけだった。

ところが掘っているうちに、別の字が気になりはじめた。

所。

そして、

処。

さらに、

場。

どれも「ところ」に近い。

しかし、同じ仕事をしているようには見えない。

いま、仮にこう置いている。

所|ある

処|おる

場|おこる

これは定義ではない。

字源論でもない。

存在論でもない。

西田哲学を三つに分解する図式でもない。

ただの監査札である。

ところで。

「場所」という字には、

場と所がある。

処はない。

もちろん、これは議論ではない。

ただの字面である。

だが、坑道というものは、こういう石ころを拾ったところから始まることがある。

西田の〈場所〉には、実にいろいろなものが入っている。

主観。

客観。

我。

非我。

作用。

統一。

矛盾。

有。

無。

やがて身体が入り、行為が入り、歴史が入り、世界が入る。

だから、

西田には〈処〉がない。

と簡単に言って終わることはできない。

それでも気になる。

〈おる〉は、どこへ行ったのか。

ここから掘る。


1|経験するのは、誰か

『善の研究』は、純粋経験から始まる。

西田は「経験する」ことを、事実をそのまま知ることから考える。

色を見る。

音を聞く。

その刹那には、

「外物が私に作用した」

とも、

「私がそれを感じた」

とも、

まだ判断していない。

そこには、まだ主も客もない。

主観と客観が先にあって、その二つが接触して経験が生まれるのではない。

まず経験がある。

主と客は、そこから分かれる。

青空文庫『善の研究』

これは面白い。

少なくとも、

誰がしたのか

を始発駅にしていない。

では、

誰が経験するのか。

この問い自体が、少し遅れている。

ところが西田は、

経験した。以上。

とは言わない。

純粋経験には、すでに別の仕事がある。

統一する。


2|主体を消した穴に、統一作用が現れた

純粋経験は、ばらばらな感覚の粒ではない。

西田にとって、具体的な意識には統一がある。

現在の意識が先行する経験と結びつく。

感覚が意味をもつ。

判断が生まれる。

意識が分化する。

そして発展する。

そこに、

統一作用

が働く。

しかも、この統一作用は、外からやってきた主体が意識内容をまとめる操作ではない。

誰かが統一する

のではなく、

統一作用が働く。

主体を始発駅から外した。

すると、

統一作用

が現れた。

ここで一枚、札を置く。

主体|?

統一作用|?

誰が経験するのか。

ではなく、

主体を消したあと、何が主体の仕事をしているのか。


3|統一作用は、何を統一するのか

では、統一作用は何を統一しているのか。

掘れば掘るほど増える。

感覚と意味。

現在と過去。

思惟と意志。

主観と客観。

精神と自然。

個物と体系。

そして、

差異と衝突。

西田の統一は、単に同じものを一つにまとめることではない。

違うものが違うものとして現れるためにも、比較と区別を可能にする統一がいる。

さらに衝突も、統一の外には置かれない。

衝突さえ、より大きな統一へ向かう契機として読まれる。

統一作用は強い。

一致を食べる。

差異も食べる。

衝突も食べる。

ZUREまで食べる。

統一作用は、かなり大きな胃袋である。


4|主客問題は、どう消えたのか

西田は、主観と客観を二つの独立した実体として置いて、それをあとから橋で結ぼうとはしない。

主客を始発駅にしない。

これは重要である。

『善の研究』では、主観側の統一と自然側の統一力を、根本的には同じものとして捉える。

つまり、

主観|客観

をあとから一致させるのではない。

両方を、同じ統一の働きから読む。

橋を架けるのではなく、

両岸を同じ地盤からつくる。

これなら主客問題はかなり消える。

しかし、別の問いが残る。

なぜ、その地盤は「統一」でなければならないのか。

主客問題を解いたら、

統一Problem

が残った。


5|「真」がやってくる

統一を掘ると、

真

が出てくる。

『善の研究』では、真理を知ることも経験の統一と結びつく。

小なる統一から、

大なる統一へ。

そして「真の自己」も統一の語彙で語られる。

ここで統一に、向きが生まれる。

単に、

違う。

ではない。

単に、

変わった。

でもない。

より大きな統一へ。

より真なるものへ。

そこで監査札を置く。

真|何を足す?

「真などない」と言いたいのではない。

それでは「非真」を新しい終着駅にするだけだ。

そうではなく、

この記述に「真」は、いつ必要になるのか。

Encounterした。

ZUREた。

応答した。

自己のあり方が変わった。

ここまでを記述するために、

「真の自己」

は必要なのか。

真|?

まだ開けておく。


6|統一は生命だけの仕事ではない

統一作用は、意識だけの話なのか。

そうでもない。

西田は自然にも統一を見る。

無機物の結晶から、

動植物の有機体へ。

さらに精神へ。

統一は生命に突然出現するのではない。

一方、有機体、とりわけ動物になると、「内面的統一」や「自己」が前景化し、精神において「真の自己」が問題になる。

だから、

物質|統一なし

生命|統一あり

とは切れない。

むしろ、

無機物|統一

有機体|統一

意識|統一

自己|統一

真の自己|統一

と、統一が横断する。

すると別の疑問が出る。

生命に固有なのは、本当に「統一」なのか。

ここで、

処

が気になってくる。


7|処|おる

仮に置く。

処|おる

定義ではない。

生命だけが〈処〉を持つ、と決めたわけでもない。

ただ、生きものを見ていると、

ある

だけでは記述しきれないものが出てくる。

止まる。

休む。

待つ。

向く。

近づく。

避ける。

歩く。

また止まる。

そこには、

どう、そこにおるか

がある。

Locus-Manner。

しかも、

おる ≠ 静止

である。

生きものは止まっていても、Encounterにさらされている。

何かが来るかもしれない。

向きを変えるかもしれない。

また歩くかもしれない。

同じところにいても、Encounterのあとには同じようには〈おられない〉ことがある。

では西田の統一作用は、

この〈おる〉をどう記述しているのか。


8|〈場所〉が現れる

1926年、西田は「場所」を書く。

ここで注意したい。

〈場所〉は統一作用の別名ではない。

むしろ西田は、

関係を統一するもの

と、

その関係が於てあるもの

を分けようとする。

統一すること。

統一するものが於てあること。

これは同じ仕事ではない。

そして、

有るものは何かに於てなければならぬ

という問いが前景化する。

統一作用がある。

では、

その統一作用は、何に於てあるのか。

〈場所〉が現れる。

ここで西田自身が、一度WORKを分けている。

『善の研究』で何でも食べそうになった統一作用に対して、

統一すること ≠ それが於てあること

を露出させた。

〈場所〉は最初から、UNITY GRAVITYの単純な肥大化だったわけではない。

むしろ、

統一そのものを問いなおすために開いた坑道

だった可能性がある。


9|〈場所〉は一枚ではない

しかも、西田の〈場所〉は一枚ではない。

有が於てある場所。

意識の野。

無の場所。

そして絶対無の場所。

〈場所〉という一枚の容器に、すべてを放り込んだわけではない。

〈場所〉そのものが掘り下げられていく。

だから、

〈場所〉が何を背負ったか

を問うなら、

同時に、

どの〈場所〉が、何を背負ったのか。

を問わなければならない。

西田が参照するプラトンの χώρα も、この地点では気になる。

しかし、ここから直ちに、

χώρα = 場|おこる

とはしない。

採掘地点として置くだけにする。

χώρα|?

場|おこる?


10|弁証法を〈場所〉に食わせる

西田はやがて弁証法を捨てるのではなく、

場所的弁証法

へ進む。

ヘーゲルを単純に捨てたのでもない。

弁証法をやめたのでもない。

むしろ、

弁証法が働くところを変える。

主語を始発駅にする構文を切り、

弁証法を〈場所〉へ置きなおす。

いや、

弁証法を〈場所〉に食わせる。

その結果、〈場所〉はますます多くの仕事を背負う。

矛盾。

否定。

限定。

形成。

歴史。

世界。

〈場所〉は単なる「於てあるところ」ではなくなる。

では、

〈場所〉は、何を背負わされたのか。


11|西田は〈処〉の手前まで来た

ここで後期西田を避けてはいけない。

後期には、

身体がある。

環境がある。

歴史がある。

行為がある。

制作がある。

西田は現実を、

「我々がそこに於てあり、そこに於て働く所」

と書く。

そして、

作られたものから作るものへ

と進む。

人が物を作る。

作られた物もまた人を作る。

こちらが対象を形成する。

対象によってこちらも形成される。

『絶対矛盾的自己同一』では、行為的直観を単なる受働的直覚とはせず、世界の形成作用のなかに自己が含まれていることとして論じている。青空文庫

ここまで来ると、

西田には〈おる〉の問題がなかった、

とは言えない。

むしろ、

西田は〈処〉の手前まで来ている。

そして、先ほどの一文で使われている字は、

所

である。

もちろん、字面だけで哲学は決まらない。

ただ、

坑口で拾った石ころが、

また落ちていた。


12|此処で踊れ

さらに掘る。

すると、

此処

まで出てくる。

西田は『絶対矛盾的自己同一』で、

「此処にロードゥスがある、此処で踊れ」

と書く。しかも、この一文は受働的直覚を退けた直後に置かれ、その直後には行為的直観の現実が「矛盾の場所」であるという議論が続く。さらに西田は、身体的なものを越えるとしても、それは「此処」から出立し、「此処」に戻ってくるものでなければならない、とする。青空文庫

西田には、

此処

があった。

此処から出立する。

此処へ戻る。

だが、この〈此処〉には、

もう一つの言葉が付いている。

踊れ。

この句は、西田だけのものではない。

ヘーゲルは『法の哲学』序文で、イソップ由来の Hic Rhodus, hic salta を掲げたあと、それを少し変奏して、

Hier ist die Rose, hier tanze.

と書く。

「ここに薔薇がある。ここで踊れ。」

その前後でヘーゲルは、哲学の課題を「あるもの」の把握に置き、哲学が自らの現在世界を飛び越えることを退けている。ヘーゲル

西田の「此処で踊れ」は、

このヘーゲル経由の句を引き受けている。

だから、〈此処〉をただの滞在地点として読むことはできない。

少なくともこの箇所では、

此処

に、

踊れ

という要請が伴っている。

ここで二枚、札を置く。

此処|おる?

此処|踊る

まだ、

どちらかを選ばない。


13|働く。それでも、おる。

ここで、西田の「働く」を狭く読んではならない。

西田の「働く」は、

労働することだけではない。

活動することだけでもない。

後期西田では、

見ることと働くことが不可分になる。

行為的直観も、単なる能動ではない。

世界を形成しながら、

世界によって形成される。

だから、

休む。

待つ。

伏せる。

ぼんやりする。

そうしたことまで、西田の広い「働き」のなかで記述できる可能性がある。

ならば、

〈処〉を〈働く〉の反対側に置くことはできない。

働く ≠ おる

と、まだ言えない。

むしろ問うべきは、

〈おる〉は、働くことなのか。

〈おる〉は、作用なのか。

そして、

作用でさえないような〈おる〉は、ありうるのか。

西田の側から反問することもできる。

「何もしない〈おる〉とは、本当に何もしていないのか。」

呼吸する。

見る。

聞く。

身体が環境に応じる。

伏せている犬も、

世界から切れてはいない。

ならば、

「おる」を「働く」から救い出したつもりで、

別の静的なGroundを作っているだけかもしれない。

だから、まだ決めない。

働く|?

作用|?

おる|?

CABAの札は、

西田をActivity Biasと判定するためではない。

どこまで広げれば、「働く」は〈おる〉まで食べられるのか。

それを監査するために置く。


14|生命は止まらない?

さらに、西田は後期の生命を静止した存在として記述しない。

『絶対矛盾的自己同一』では、生命を動揺的なものとして捉え、歴史的身体、形成、行為的直観を結びつけていく。そこでは「行為を否定した受働的な直覚」は実在世界にはない、とまで述べられる。青空文庫

ここでも、

生命|ある

だけでは終わらない。

動く。

形成する。

働く。

作る。

作られる。

しかし、だからといって、

西田は生命を〈おる〉として考えられなかった

と結論するのは早い。

むしろ問う。

西田の生命記述は、なぜ「おる」で止まらないのか。

あるいは、

「おる」で止めること自体が、われわれのBiasなのか。

まだ、

両方を開けておく。


15|「所が作をつくり、作が所をつくる」は反論ではない

ここで、われわれの別の坑道から出てきた一文を置く。

所が作をつくり、作が所をつくる。

これを西田への対案として置くと危ない。

後期西田は、

すでにかなり近いところまで来ている。

作るものは、

作られたものによって作られる。

主体は環境を形成し、

環境も主体を形成する。

だから、

所が作をつくり、作が所をつくる

は、

西田から離れる言葉ではない。

むしろ、

西田自身が掘った坑道と近接している。

ならば違いはどこにあるのか。

ここで改めて問う。

於てある

於て働く

此処で踊る

おる

この四つは、

同じ仕事をしているのか。


16|遇う

さらに一枚。

遇|あう

Encounterする。

ここにも、

統一を最初から置く必要があるだろうか。

誰かに遇う。

何かに遇う。

応答する。

しかし、

応答 ≠ 照応。

応答はZUREる。

聞き違える。

遅れる。

黙る。

話を変える。

立ち去る。

翌日になって効く。

Encounterした二者が一致する必要はない。

Encounterによって「真の自己」が現れる必要もない。

意味が生まれなくてもいい。

自己形成の成果報告書もいらない。

遇|あう

応|ZUREる

処|おる

ここで止められる局面がある。

すると再び、

統一|いつ必要?

が戻ってくる。

Encounterの前か。

最中か。

あとか。

なぞりなおしたときか。

あるいは、

最後までなくてもいいのか。


17|散歩には成果がいらない

散歩する。

目的地はない。

結果はいろいろある。

運動した。

犬に遇った。

匂いを嗅いだ。

橋の下へ行った。

疲れた。

帰った。

あとからなら、

今日の散歩

として一つにまとめられる。

しかし歩いている最中に、

そのWholeはすでにあっただろうか。

次の角で何が起こるか知らない。

誰に遇うかも知らない。

どこで止まるかも知らない。

それでも歩いている。

歩いたら、散歩になった。

道程はあとからできる。

ならば、

統一もあとからできてはいけないのか。

あるいは、

最後まで統一されなくてもいいのか。

散歩はWholeにならなくても、

散歩なのではないか。


18|弁証法は散歩できるか

ここで弁証法へ戻る。

西田は始発駅をかなり壊した。

主客を始発駅にしない。

主体を始発駅にしない。

後期には、終着駅も単純には固定しない。

歴史的世界は、

作られながら作る。

現在から現在へ。

生成は続く。

だから、

西田には始発駅と終着駅がある

だけでは監査にならない。

もっと奥を見る。

運動そのものに、解決義務が残っていないか。

ここで、

あの句が戻ってくる。

此処で踊れ。

踊りには、

目的地がなくてもいい。

その意味では、

踊りは散歩に近い。

どこかへ到着するために踊る必要はない。

しかし、

踊れ

は命令形である。

目的地はない。

それでも、

踊れと言われる。

ここに、

終着駅を固定しない運動にも残る

GRAVITY

があるだろうか。

動け?

働け?

形成せよ?

踊れ?

まだ、

等号では結ばない。

西田自身の語彙と、

こちらの監査語彙を混ぜない。

ただ問う。

終着駅を失ったあとにも、運動への要請は残るのか。

そして、

弁証法は散歩できるか。

散歩には、

目的地がなくてもいい。

成果もなくていい。

さらに、

散歩しろ、

という命令さえ、

なくてもいい。


19|だけど、「処」がなかった

ここまで来ると、

〈処〉なき〈場所〉

の意味がさらに変わる。

これは、

西田には身体がなかった、

という意味ではない。

生命がなかった、

という意味でもない。

環境がなかった、

という意味でもない。

Encounterがなかった、

とも言えない。

働きがなかった、

などとは到底言えない。

西田は、

〈処〉の手前まで来ていた。

身体があった。

環境があった。

於てあることがあった。

於て働くことがあった。

作ることと、

作られることがあった。

歴史があった。

世界があった。

そして、

此処まであった。

此処から出立する。

此処へ戻ってくる。

そして、

此処で踊れ。

だけど、「処」がなかった。

正確には、

〈処〉という独立した切り分けがなかった。

〈処〉がなかったからといって、

〈おる〉ことがなかったわけではない。

むしろ、

〈おる〉は、そこら中に露出しかけている。

だから問いたい。

〈おる〉の仕事を、

西田のどの語彙が背負っていたのか。

場所か。

所か。

身体か。

作用か。

働きか。

行為か。

あるいは、

此処

なのか。

それとも、

それらのあいだに分散していたのか。


20|切り方が違う

最初の三枚へ戻る。

所|ある

処|おる

場|おこる

西田は、

この三枚の札を置かなかった。

西田自身が区別しなかった、

という意味ではない。

西田はむしろ、

統一と於てあることを分け、

〈場所〉そのものにも複数の層を掘った。

ただ、

所|処|場という切り方では分けなかった。

西田は、

〈場所〉

という坑道を掘った。

われわれはいま、

その坑道を歩きながら、

所|処|場

という別の札を拾っている。

対象が違うのではない。

切り方が違う。

だから、

〈処〉なき ≠ 〈おる〉なき

である。

そして、

Difference ≠ Deficiency.

「処」がなかった。

それだけである。

だが、その差異が、

次のEncounterに効く。


21|OPEN──此処で、〈おる〉ことはできるか

西田は主客を始発駅にしなかった。

経験する「私」を始発駅にすることも疑った。

統一作用を掘った。

その統一作用が於てある〈場所〉を掘った。

〈場所〉そのものをさらに掘った。

弁証法を〈場所〉に食わせた。

身体を入れた。

環境を入れた。

歴史を入れた。

行為を入れた。

作るものと作られたものを、

相互に働かせた。

そして、

此処まで来た。

此処から出立する。

此処へ戻る。

此処で、

踊れ。

では、

此処で、〈おる〉ことはできるか。

いや。

その問いも、

〈踊る〉と〈おる〉を対立させすぎているかもしれない。

踊りながら、

おることもできる。

歩きながら、

おることもできる。

伏せながら、

おることもできる。

ならば、

問いはまだ動く。

〈おる〉は、〈働く〉に尽くされるのか。

〈おる〉は、〈踊る〉に尽くされるのか。

そして、

Encounterは、統一に尽くされるのか。

差異は、Wholeに尽くされるのか。

まだ分からない。

だから、

西田を解決しない。

西田に遇う。

応答する。

ZUREる。

歩く。

止まる。

また歩く。

そして、

もう少し、

此処におる。

処?


Development Notes|v0.4

〈場所〉 ≠ 〈処〉

〈処〉なき ≠ 〈おる〉なき

Difference ≠ Deficiency

所|present

此処|present

〈処〉|independent audit card absent?

此処|出立/戻る

此処|踊れ

Hegel|Hic Rhodus, hic salta

Hegel|Hier ist die Rose, hier tanze

Nishida|此処にロードゥスがある、此処で踊れ

踊る ≠ 働く

踊れ ≠ 目的論

命令/要請|何を足す?

於てある ≠ おる?

於て働く ≠ おる?

働く|how broad?

おる|作用?

作用でさえない〈おる〉?

此処|おる?

Experience ≠ Encounter ?

Unity|When?

True|What does it add?

Encounter|Unity required?

Response ≠ Correspondence

ZURE|No obligation to resolve

Action / Activity / Work|When needed?

所|処|場 = Audit Cards, not Nishida’s distinctions

〈おる〉|backgrounded? distributed? already within 働く?

GRAVITY|recurrent directional pull in description?

OPEN


西田幾多郎、〈場所〉の重力

── 背負わされた〈場〉と〈所〉と〈処〉

第一部|西田幾多郎篇

〈処〉なき〈場所〉における統一作用の弁証法

v0.5|Audit Final


0|坑口──「場所」から掘る

西田幾多郎の〈場所〉を読みなおしている。

最初から、西田を批判するつもりだったわけではない。

「場所」という語が気になった。

それだけだった。

ところが掘っているうちに、

別の字が落ちていた。

所。

処。

そして、

場。

どれも「ところ」に近い。

しかし、同じ仕事をしているようには見えない。

いま、仮にこう置いている。

所|ある

処|おる

場|おこる

定義ではない。

字源論でもない。

存在論でもない。

西田哲学を三分割する図式でもない。

ただの監査札である。

そして、もう一枚。

重力|GRAVITY?

ここでいう重力も、まだ理論概念ではない。

ある語彙を使うと、

記述が繰り返しある方向へ傾くように見える。

その傾きを観察するために、

仮に置いた札である。

西田の〈場所〉には、

実にいろいろなものが入っている。

主観。

客観。

自己。

作用。

統一。

矛盾。

有。

無。

身体。

行為。

歴史。

世界。

制作。

形成。

だから、

西田には〈処〉がない。

とは言えない。

問いはもっと狭い。

西田の語彙のなかで、〈おる〉はどんな仕事をしていたのか。

ここから掘る。


1|経験が先にある

『善の研究』は、純粋経験から始まる。

色を見る。

音を聞く。

その刹那には、

まだ、

「私が見た」

とも、

「外物が私に作用した」

とも判断していない。

西田はそこを、

まだ主も客もないところとして記述する。

個人が先にあって経験するのではない。

経験が先にあり、

そこから個人が現れる。

ここでは、

誰がしたのか

が始発駅ではない。

これは重要である。

では、

経験はそのまま、

ばらばらに生じて消えるのか。

そうではない。

ここで、

統一

が現れる。


2|主体は消えたのか

v0.4では、

「主体を消した穴に、統一作用が現れた」

と書いた。

これは強すぎた。

西田は自己を消してはいない。

むしろ、

自己を統一作用として読み替える。

『善の研究』では、

意識が「誰かの意識」であるということを、

意識に統一があることとして読みなおす。

そして自己そのものを、

宇宙実在の統一力と結びつける。

主体を始発駅から外した。

しかし、

主体の仕事まで消えたわけではない。

そこで札を置きなおす。

主体|?

自己|?

統一作用|?

主体が消えたのではなく、

主体の席に、統一作用が座った?

まだ ? をつけておく。


3|統一は、差異まで食べる

統一作用は強い。

同じものだけをまとめるのではない。

違うものを区別することも、

統一のなかで記述される。

衝突さえ、

統一の外へ追い出されない。

『善の研究』では、

衝突がより大きな体系的発展の端緒として位置づけられる。

だから西田の統一は、

単なる一致ではない。

差異を含む。

衝突を含む。

矛盾へ向かう契機まで含む。

それでも問いは残る。

差異が効くために、統一は必要か。

ここで札を一枚。

Difference|works

≠

Difference|belongs to Unity

差異が次に効くことと、

差異が一つのWholeに属することは、

同じではない。


4|主客問題のあとに残るもの

西田は主観と客観を、

独立した二つのものとして始めない。

『善の研究』では、

主観的統一と自然の客観的統一力を、

根本において同じものとして捉える。

主観と客観のあいだに、

あとから橋を架けるのではない。

両方を、

同じ統一の働きから読む。

主客問題は、

ここで大きく組み替えられる。

しかし、

別の問いが残る。

なぜ、その仕事を「統一」がしなければならないのか。

主客問題を掘ったら、

統一Problem

が出てきた。


5|「真」は何を足すのか

統一を掘ると、

真

が出てくる。

『善の研究』では、

小なる統一から、

大なる統一へ。

そして真正な自己も、

統一作用そのものとして語られる。

ここで、

単なる変化ではない向きが現れる。

より大きな統一へ。

より真正な自己へ。

だから問う。

True|What does it add?

「真などない」

と言いたいのではない。

それでは「非真」を新しいGroundにするだけだ。

そうではなく、

Encounterした。

ZUREた。

応答した。

自己のあり方が変わった。

そこまでを記述するために、

「真」はいつ必要になるのか。

まだ開けておく。


6|統一は生命だけの仕事ではない

統一は、

生命に突然現れるわけでもない。

西田は『善の研究』で、

無機物の結晶にも統一作用を見る。

有機体になると、

統一はさらに明瞭になる。

精神に至って、

真の自己が現れる。

したがって、

物質|統一なし

生命|統一あり

とは切れない。

むしろ、

統一が、

物質から生命、精神までを横断する。

ならば、

生命の差異は、何によって記述されているのか。

ここで、

処

が気になってくる。


7|処|おる

仮に置く。

処|おる

これも定義ではない。

生きものを見ていると、

ある

だけでは薄すぎる局面がある。

歩く。

止まる。

向く。

嗅ぐ。

待つ。

休む。

眠る。

また動く。

そこには、

どう、そこにおるか

がある。

しかも、

おる ≠ 静止

である。

歩いていても、おる。

止まっていても、おる。

寝ていても、おる。

Moveも、

Stopも、

Restも、

〈おる〉のMannerとして現れうる。

だから、

〈処〉をActivityの反対側に置かない。

〈処〉は、Activity / Inactivity の判定を要求せずに〈おる〉を記述する札になりうるか。

まだ、

?

である。


8|1926年、「場所」

1926年、西田は「場所」を書く。

その冒頭近くに、

この一文がある。

「有るものは何かに於てなければならぬ」

対象と対象が関係し、

体系を成す。

その体系を維持するものだけでなく、

その体系が於てあるものを考えなければならない。

ここで〈場所〉が現れる。

重要なのは、

〈場所〉が単なる容器ではないことである。

作用そのものも、

何かに於てある。

さらに西田は、

作用を、

映されるものと映す場所との関係として捉えようとする。

つまり、

統一すること

と、

それが於てあること

は、

同じ仕事ではない。

〈場所〉は、

統一作用を単に巨大化した語ではない。

むしろ、

統一や作用そのものが、何に於てあるのか。

を問うために開いた坑道だった。ARCHIVE


9|〈場所〉は「働く」まで消す

さらに面白い。

「場所」を読み進めると、

絶対無の場所では、

単純に「働き」が肥大化するわけではない。

西田は、

場所を徹底して掘り下げたところで、

「すべての意義において働くというものはなくなる」

とまで書く。

つまり、

〈場所〉は、

Activityを無限に拡張するためだけの概念ではない。

むしろ、

働くものそのものが消える地点

まで掘られる。ARCHIVE

これは重要な反証札である。

だから、

西田=Activity Bias

とは言えない。

それでも後期になると、

再び、

働く。

作る。

形成する。

という語彙が強く前景化する。

では、

それらは、どこから戻ってくるのか。


10|弁証法は〈場所〉へ行く

西田は、

弁証法を捨てなかった。

1931年のヘーゲル論では、

自らの「行為の弁証法」を、

場所的弁証法

とも呼ぶ。

さらに1937年の付記では、

自分がヘーゲルから多くを学び、

ヘーゲルに近いことを認めながら、

ヘーゲルの弁証法はなお「主語的」「ノエマ的」であると批判する。

真の弁証法は、

その立場をいったん断ち切ったところから出なければならない、

とする。京都大学学術情報リポジトリ KURENAI

だから、

「ヘーゲルを捨てた」

ではない。

また、

「場所へ逃げた」

だけでもない。

弁証法を、

主語を始発駅にする構文から外し、

〈場所〉で働かせなおす。

だから、

われわれの言葉でなら、

こう置ける。

弁証法|場所へ

場所的弁証法|?

いや。

まだ矢印も早い。

弁証法

場所

行為

三枚置いておく。


11|於てある。於て働く。そして、作る。

後期西田へ行く。

『絶対矛盾的自己同一』には、

決定的な一文がある。

我々がそこに於てあり、そこに於て働く所が、現実なのである。

ここまでなら、

われわれの札はかなり近づく。

於てある。

於て働く。

しかし、

すぐ次で西田は、

「働く」を、

単なる意志ではなく、

物を作ること

として語る。

ここはv0.4から修正する。

西田の「働く」は、

テキスト全体では一義的ではない。

見ることと働くことが接近する箇所もある。

しかし、この重要な箇所では、

働く|作る

が強く結びつく。

だから問いも細くなる。

〈おる〉を記述するために、〈働く〉は必要か。

さらに、

〈おる〉を記述するために、〈作る〉は必要か。


12|冬一郎は「いまだ」なのか

ここで、

犬が坑道へ入ってきた。

西田は『絶対矛盾的自己同一』で、

動物的生命を人間と区別する。

動物には、

人間的な意味でのポイエシスが、

いまだ

ない。

生物的生命は、

人間のような、

「作られたものから作るものへ」

ではない。

ここで、

一枚の札が鳴る。

Difference ≠ Deficiency

もちろん、

西田が単純に、

「動物は劣っている」

と言っている、

という話ではない。

問いたいのは、

「いまだ」は、何に対する「いまだ」なのか。

である。

制作を札にすれば、

動物は、

「いまだ制作しないもの」

として現れる。

形成を札にすれば、

別の差異が見える。

では、

処|おる

という札から見たらどうなるか。

冬一郎は、

まだ何者かになっていないのか。

🐕「知らん。」

おる。

それだけで、

別の記述が可能になる。


13|静止すると、実在しない?

しかし、

ここで西田を簡単に「動く側」へ置いてはいけない。

『善の研究』には、

静止状態では実在は成立しない、

という強い方向がある。

一つの状態に固定され、

他へ移れない精神は、

生きた精神として記述されない。

後期でも、

世界を静止的に考えると、

現実そのものが失われる、

という方向は続く。

だから、

西田の記述は、

〈おる〉で止まらない。

そう見える。

しかし、

反対側の杭もある。

西田は、

動中に静あり

とも書く。

後期にも、

動即静、静即動

という語彙がある。

つまり、

西田自身が、

おる ≠ 静止

に近い問題をすでに持っている。

ならば問いは、

「西田は静止を理解できなかった」

ではない。

動と静をこれほど考えた西田が、なぜ〈おる〉という切り分けには行かなかったのか。

これなら、

DifferenceをDeficiencyにしなくて済む。


14|此処で踊れ

そして、

此処

が出る。

『絶対矛盾的自己同一』で、

西田は、

「此処にロードゥスがある、此処で踊れ」

と書く。

その直前には、

受働的直覚への批判。

直後には、

行為的直観、

矛盾の場所、

形成の議論が続く。

しかし、

「踊れ」そのものを、

運動GRAVITYの証拠にはしない。

同じ句は、

Locusによって仕事を変えてきたからである。

イソップ。

ヘーゲル。

マルクス。

西田。

同じ句。

違うLocus。

違うWork。

same phrase ≠ same work

だから問う。

西田の〈場所〉に置かれたとき、「此処で踊れ」は何をしはじめたのか。

此処|おる?

此処|踊る?

此処|働く?

此処|形成する?

まだ決めない。


15|踊れより、課題

「重力」を探すなら、

むしろこちらのほうが強い。

西田は、

人間が何かを形成すべく、

課せられている

と書く。

身体をもって生まれることそのものを、

無限の課題を負って生まれることとして語る。

ここには、

「踊れ」の解釈を経由しなくても、

明確な向きがある。

課題。

そこで、

監査札を置く。

Task|What does it add?

生命が生きることと、

課題を負うことは、

同じなのか。

人間を記述するために、

課題は必要なのか。

身体をもって生まれることに、

なぜ課題が付くのか。

もちろん、

課題を否定する必要はない。

課題を持つこともある。

ただ、

課題を持たずに〈おる〉ことはできるか。


16|散歩には、課題があるか

冬一郎と散歩する。

歩く。

止まる。

嗅ぐ。

見る。

また歩く。

ときどき、

長いこと止まる。

私は待つ。

どちらも、

踊らない。

そして帰ったら、

寝る。

散歩には結果がある。

運動した。

何かに遇った。

疲れた。

Traceも残る。

でも、

その結果を得ることが、

散歩の課題だったわけではない。

結果がある ≠ 結果が目的だった

さらに、

道程ができる ≠ 道程が先にあった

歩いたら、

散歩になった。

だから問う。

散歩を記述するために、「課題」は必要か。

🐕「ナンジャ?」

知らん。

散歩しとる。


17|働く。作る。休む。寝る。

ここでCABAへ戻る。

働くことを広く取れば、

休むことも、

寝ることも、

生命活動としては何かをしている。

冬一郎が寝ていても、

呼吸する。

代謝する。

外の音に耳を動かすかもしれない。

だから、

寝ることさえ、

広い意味の「働き」として記述することはできる。

しかし、

ここで区別する。

作用がある

≠

作用として記述する必要がある

これが重要である。

すべてを「働く」に含めることができるとしても、

〈おる〉を記述するために、〈働く〉は必要なのか。

すべてを形成作用として読むことができるとしても、

〈おる〉を記述するために、〈形成〉は必要なのか。

そして、

物を作っていなくても、

おる。

ここで〈処〉は、

RestをActivityに対抗させる札ではなくなる。

Activity / Inactivityという問いそのものを要求しない札。

そうなりうるか。

まだ、

?

である。


18|処々不滞

そして、

「処」が出てきた。

西田は後期に、

臨済の言葉を引く。

処々不滞。

どの処にも、

滞らない。

さらに、

去住自由。

去る。

住む。

ここまで来ると、

「西田には処という字がなかった」

とは、

字面についてさえ言えない。

だから改める。

西田には、〈処〉という独立した切り分けがなかった。

しかも面白い。

「処」が現れるところで、

そこに留まることだけが語られるわけではない。

滞らない。

去る。

住む。

つまり、

〈処〉をStopに固定することもできない。

処|Stop

ではない。

われわれの札も、

ここで監査される。

処|おる?

おる ≠ 留まる?

坑道は、

こちら側にも掘り返してくる。


19|〈場所〉の重力

ここまで来て、

ようやくタイトルへ戻れる。

〈場所〉そのものに、

重力がある、

と断定したいのではない。

まして、

西田哲学はActivity Biasである、

とも言わない。

むしろ反証はたくさんある。

絶対無の場所では、

働くものそのものが消える。

動のなかに静を見る。

去住自由を語る。

非連続も考える。

だから、

重力を一つの語に置かない。

観察したいのは、

あるDifferenceが、西田の語彙に置かれたとき、繰り返しどちらへ傾いて記述されるか。

統一。

真正。

発展。

働く。

作る。

形成。

課題。

行為。

その一方に、

無。

静。

受働。

非連続。

去住自由。

これらもある。

だから、

GRAVITY = 結論

ではない。

GRAVITY|?

監査対象である。


20|Difference ≠ Deficiency

そこで、

冬一郎へ戻る。

西田の語彙から見れば、

動物には、

人間的ポイエシスが、

いまだ

ない。

その記述には、

ある方向がある。

だが、

そのDifferenceを、

必ずDeficiencyとして読む必要はあるだろうか。

制作しない。

だから欠けている。

とは限らない。

課題を負わない。

だから足りない。

とも限らない。

踊らない。

だから止まっている。

でもない。

寝ている。

だから世界と無関係。

でもない。

Differenceは、

Differenceとして、

次に効くことができる。

Difference ≠ Deficiency.

これは西田への判決ではない。

こちら側の監査札でもある。

〈処〉を勝たせるために、

西田のDifferenceをDeficiencyにしてはいけない。

だから、

〈処〉もまた、

問いとして置く。


21|西田は〈処〉の手前まで来た?

於てある。

於て働く。

作る。

形成する。

此処から出立する。

此処へ戻る。

処々に滞らない。

去る。

住む。

動中に静がある。

ここまで来ている。

だから、

「西田には〈おる〉がなかった」

とは言えない。

むしろ、

そこら中に〈おる〉の仕事がある。

ただ、

その仕事は、

場所。

所。

身体。

生命。

作用。

働き。

制作。

行為。

形成。

そうした語彙のなかに、

分散しているように見える。

だから、

いま問えるのは、

〈おる〉は、どの語彙に背負われていたのか。

そして、

〈おる〉を、独立した札として切り出すと、何が見えるのか。


22|ある|おる|おこる

坑口の三枚へ戻る。

所|ある

処|おる

場|おこる

西田は、

この三枚の札を置かなかった。

だからといって、

三つの仕事を考えなかった、

とは言えない。

切り方が違う。

西田の〈場所〉が背負っていた仕事を、

われわれは、

別の札でなぞりなおしている。

そのとき、

西田の〈場所〉そのものも、

違って見える。

そして、

こちらの〈処〉も、

西田にEncounterすることで、

違ってくる。

〈処〉 = Stop

ではなかった。

〈処〉 = Rest

でもなかった。

Activityの反対語でもない。

もしかすると、

処|おる

とは、

「何をしているか」を先に決めずに、

そこにある生命を記述してみるための、

一枚の札なのかもしれない。

まだ、

?

である。


23|OPEN──〈おる〉を記述するために、何が必要か

西田を解決しない。

統一を捨てない。

作用を捨てない。

働きを捨てない。

制作を捨てない。

課題を捨てない。

弁証法も捨てない。

ただ、

一枚ずつ聞く。

What does Unity add?

What does True add?

What does Work add?

What does Making add?

What does Task add?

そして、

最後に聞く。

〈おる〉を記述するために、何が必要か。

冬一郎は寝ている。

踊っていない。

物を作っていない。

課題を遂行しているようにも見えない。

生命活動は続いている。

だから、

「働いている」

と記述することもできる。

だが、

そう記述しなくてもいい。

🐕は、

おる。

それだけで、

足りる局面がある。


西田は後年、『善の研究』を振り返る序文で、フェヒナーが腰掛に休らいながら春の牧場を眺めた話に触れ、自分自身も若いころ、金沢の街を歩きながら夢見るように思索したことを記している。

腰掛に休らう。

街を歩く。

哲学は、

そこからも始まっていた。

踊ってはいない。

課題を遂行していたのかどうかも、

知らない。

歩いていた。

休んでいた。

考えていた。

おった。

だから、

もう少し、

此処におる。

処?


Development Notes|v0.5 Audit Final

〈処〉なき ≠ 〈おる〉なき

Difference ≠ Deficiency

Subject absent? → NO

Subject / Self → Unity-function?

Difference works ≠ Difference belongs to Unity

Experience ≠ Encounter ?

Unity|When?

True|What does it add?

1926 場所|於てある

場所 ≠ Container

絶対無の場所|働くものの消失

Action Bias verdict|NOT ESTABLISHED

働く|multiple jobs

働く|作る

Making|What does it add?

Animal|いまだ Poiesis

“いまだ”|relative to what?

Difference ≠ Deficiency

静止拒否|YES

動中の静|YES

おる ≠ 静止

此処|おる?

此処|踊る?

same phrase ≠ same work

Task|What does it add?

結果がある ≠ 結果が目的だった

作用がある ≠ 作用として記述する必要がある

Activity / Inactivity|Does 処 require the distinction?

処々不滞

去住自由

処|おる?

おる ≠ 留まる?

場所的弁証法|verified

GRAVITY|recurrent descriptive inclination?

GRAVITY ≠ verdict

所|ある

処|おる

場|おこる

Cut ≠ Ontology

OPEN


西田幾多郎、〈場所〉の重力

── 背負わされた〈場〉と〈所〉と〈処〉

第一部|西田幾多郎篇

〈処〉なき〈場所〉における統一作用の弁証法

v0.6|Gravity Re-Audit


0|坑口──重力は、ずっと同じだったのか

西田幾多郎の〈場所〉を読みなおしている。

最初に置いた札は、

これだった。

所|ある

処|おる

場|おこる

定義ではない。

字源論でもない。

存在論でもない。

西田哲学を三つに分解する図式でもない。

ただの監査札である。

そして、もう一枚。

GRAVITY|?

ある語彙に入ると、

記述が繰り返し、

ある方向へ傾くように見える。

その傾きを、

仮に〈重力〉と呼んでみる。

最初は、

西田の哲学には、

統一。

発展。

作用。

働く。

作る。

形成。

行為。

課題。

そうした方向への重力が、

一貫して働いているのではないかと思った。

しかし、

1926年「場所」を読んだら、

そう簡単ではなくなった。

西田はそこで、

働くということの意味もなくなる

ところまで行っている。ARCHIVE

ならば、

問いを変えなければならない。

重力は、ずっと同じだったのか。


Ⅰ|統一する

1|経験が先にある

『善の研究』は、

純粋経験から始まる。

色を見る。

音を聞く。

その刹那には、

まだ主も客もない。

個人が先にあって、

その個人が経験を所有するのではない。

経験が先にあり、

そこから個人が現れる。

ここでは、

誰がしたのか

が始発駅ではない。

しかし、

経験はばらばらなまま放置されない。

そこで、

統一

が現れる。


2|主体は、統一作用へ

以前、

「主体を消した穴に、統一作用が現れた」

と書いた。

これは強すぎた。

西田は自己を消していない。

むしろ、

自己を統一作用として読み替えている。

意識が「誰かの意識」であるということも、

意識に統一があることとして読みなおされる。

だから、

主体が消えたのではない。

少なくとも、

そう簡単には言えない。

主体|?

自己|?

統一作用|?

問いは、

主体の仕事を、統一作用が背負ったのか。

となる。


3|差異まで統一する

西田の統一は、

同じものだけをまとめる統一ではない。

違うものを区別することも、

衝突することも、

統一の外には置かれない。

衝突さえ、

より大きな体系的発展の契機となる。

だから、

西田を単純な「一致の哲学」と読むことはできない。

むしろ、

差異を差異として含みながら、

より大きな統一へ進む。

そこで、

こちらの札を置く。

Difference|works

≠

Difference|belongs to Unity

差異が効くことと、

差異がWholeへ回収されることは、

同じではない。

統一は、いつ必要になるのか。


4|真正な自己

統一には、

さらに向きがある。

小なる統一から、

大なる統一へ。

そして、

真正な自己も、

統一作用として語られる。

ここでは、

単なる変化ではなく、

より

が入る。

より大きな統一。

より真正な自己。

だから、

もう一枚。

True|What does it add?

Encounterした。

ZUREた。

応答した。

自己のあり方が変わった。

そこまでを記述するために、

「真正」はいつ必要になるのか。

まだ決めない。


5|静止では、実在しない

『善の研究』では、

実在は静止したものとしては捉えられない。

固定され、

他へ移れないなら、

生きた実在ではない。

ここだけ見れば、

かなり強い方向が見える。

実在|動く

精神|発展する

統一|進む

しかし、

西田自身が、

ここから動く。

1926年。

〈場所〉へ。


Ⅱ|働くことさえ消える

6|有るものは、何かに於てある

1926年「場所」。

冒頭近くで西田は書く。

「有るものは何かに於てなければならぬ」

そうでなければ、

有ることと無いこととの区別さえできない。

そして、

関係を統一するものと、

関係が於てあるものとは、

区別できるはずだという。ARCHIVE

ここで、

『善の研究』の統一作用だけでは足りなくなる。

統一する

≠

於てある

〈場所〉が現れる。


7|場所は、容器ではない

しかし、

〈場所〉は箱ではない。

何かが先にあり、

あとからその何かを入れる空間でもない。

西田は、

プラトン『ティマイオス』の語に倣って、

これを〈場所〉と名づける。

しかし、

すぐに断る。

プラトンの「受取る場所」と、

自分が〈場所〉と名づけるものを、

同じと考えるのではない。ARCHIVE

おもしろい。

近いからこそ、同じにしない。

こちらも同じ作法で行く。

χώρα|?

場所|?

場|おこる?

似ていても、

等号を置かない。


8|生滅の場所

そして、

重要な一文が来る。

西田は、

真の場所を、

単なる変化の場所ではなく、

生滅の場所

と呼ぶ。ARCHIVE

生じる。

滅する。

われわれは、

別の坑道で、

場|おこる?

と置いていた。

似た石ころが落ちている。

しかし、

生滅の場所 = 場|おこる

とはしない。

拾う。

眺める。

ポケットに入れる。

まだ使わない。


9|働く意味がなくなる

そして、

ここで大きくZUREる。

西田は、

生滅の場所へ入ると、

「もはや働くということの意味もなくなる」

と書く。

残るのは、

「唯見る」

である。ARCHIVE

これは大きい。

『善の研究』から、

1939年の行為的直観までを、

「活動の哲学」という一本の線で結ぶことはできない。

1926年、

西田は、

働くことの外へ出ている。

いや。

それも強すぎる。

正確には、

〈働く〉という記述の意味がなくなる位相を考えている。

ここで、

われわれの問いと近づく。

作用がある

≠

作用として記述する必要がある

しかし、

まだ、

唯見る = おる

とはしない。

西田の「見る」は、

すでに多くの哲学的仕事をしている。

だから、

見る|おる?

だけ置く。


10|働くものまで消える

さらに深く行く。

真の無の場所では、

西田は、

働くもの

そのものまで消す。

そこでは、

力もなくなり、

判断作用さえ対象化される。

作用も存在の意味を失う。ARCHIVE

これは、

Activity Biasという単純な判定に対する、

強い反証になる。

西田は、

何でも「働き」にしてしまう哲学者ではない。

むしろ1926年には、

働くものが消えるところまで掘った。

ならば、

問いは逆になる。

なぜ、あとで〈働く〉が戻ってくるのか。


11|静的存在

さらに、

もう一本。

西田は「純粋性質」という語を説明して、

それが、

作用よりも深い

がゆえに、

静的存在

なのだと書く。ARCHIVE

ここで、

1911年との緊張が露出する。

1911|静止では実在が成立しない

1926|作用より深い静的存在

これは、

どちらかを消して整合させる必要はない。

むしろ、

両方置く。

same Nishida ≠ same work.

西田自身が、

動いている。


12|でも、静止したわけでもない

ただし、

1926年を、

「静の哲学」へ反転させるのも早い。

同じ「場所」で、

真の無の場所は、

すべての働きを超越した永遠なるものとして考えられる一方、

すべての場所を含むがゆえに、

無限に働くもの

とも考えられる、と西田は書く。ARCHIVE

さらに、

純粋性質は、

「見ることが働くことでもある」ものとしても語られる。

つまり、

静|動

見る|働く

の境界自体が、

ここでは揺れている。

だから、

1926年を、

われわれの〈処〉へ回収しない。

近いからこそ、同じにしない。


Ⅲ|再び、働く

13|重力は戻ったのか

そして後期へ行く。

1939年『絶対矛盾的自己同一』の冒頭は、

相働く世界

から始まる。

しかし、物を全体的一の部分としてのみ考えると「働く物」がなくなり、世界が静止的になって「現実」がなくなる、と西田は書く。青空文庫

1926年には、

働くものが消える地点まで掘った。

1939年には、

働くものがなくなれば、

現実まで失われる、

という方向が再び強くなる。

だから問う。

重力は、戻ったのか。

もちろん、

「1926年に捨てた活動主義へ逆戻りした」

という意味ではない。

後期西田は、

1926年を通過した後の西田である。

だからこそ、

なぜ再び〈働く〉が必要になったのか。

を問える。


14|於てある。於て働く。作る。

1939年。

西田は現実を、

我々がそこに於てあり、そこに於て働く所

として書く。

そして、

そのすぐ先で、

働くことを、

単なる意志ではなく、

物を作ること

として語る。

ここで、

1926年との差が露出する。

1926|於てある/見る

1939|於てある/働く/作る

しかし、

発展図にはしない。

ただ、

違う。

そして問う。

〈おる〉を記述するために、〈働く〉は必要か。

さらに、

〈おる〉を記述するために、〈作る〉は必要か。


15|「いまだ」の動物

ここで、

冬一郎が入ってくる。

後期西田は、

動物的生命を、

人間的ポイエシスとの違いから記述する。

動物には、

人間的な意味でのポイエシスが、

いまだ

ない。

ここで、

われわれの札が鳴る。

Difference ≠ Deficiency

西田を、

「動物を劣ったものとした」

と裁くためではない。

問いはもっと細い。

「いまだ」は、何に対する「いまだ」なのか。

制作を札にすれば、

冬一郎は、

「いまだ制作しないもの」

になる。

では、

処|おる

を札にしたらどうなるか。

冬一郎は、

まだ何者かになっていない存在ではない。

🐕は、

おる。

制作的でないことを、

欠如として記述する必要はない。


16|此処で踊れ

1939年には、

此処

も出る。

「此処にロードゥスがある、此処で踊れ」。

その直前では、行為を否定した受働的直覚を実在世界にはないものとして退け、直後には行為的直観の現実を「矛盾の場所」として論じる。青空文庫

しかし、

「踊れ」を、

運動GRAVITYの証拠にはしない。

同じ句は、

使われるLocusによって、

違う仕事をしてきた。

same phrase ≠ same work

だから、

問いだけ置く。

此処|おる?

此処|踊る?

此処|働く?

此処|形成する?

そして、

踊ることと、

おることを、

対立させない。

踊りながら、

おることもできる。

ただし、

冬一郎も、

私は、

散歩中には踊らない。

寝ているときも、

踊らない。


17|踊れより、課題

だから、

重力の杭を、

「踊れ」だけには打たない。

後期西田には、

もっと直接的な語彙がある。

課題。

人間は、

何かを形成すべく課せられている。

身体をもって生まれることも、

無限の課題を負って生まれることとして語られる。

ここなら、

句の解釈史を経由しなくても、

向きが見える。

そこで問う。

Task|What does it add?

生命を記述するために、

課題は必要なのか。

身体をもって生まれることに、

なぜ課題が付くのか。

そして、

課題を負わずに〈おる〉ことはできるか。


Ⅳ|重力を監査する

18|一本の重力ではなかった

ここまで来て、

ようやくタイトルへ戻る。

西田には、

一貫したActivity Gravityがあった。

そうは言えない。

少なくとも、

1926年「場所」が、

それを許さない。

仮に三枚並べるなら、

1911|統一・発展・静止では実在しない

1926|生滅・唯見る・働く意味の消失・静的存在

1939|相働く・作る・形成・行為・課題

矢印は置かない。

これは、

進歩でも、

後退でも、

完成でもない。

ただ、

同じ西田の記述が、

同じ方向へ傾き続けてはいない。

重力は、ゆるんだのか。

重力は、戻ったのか。

あるいは、

そもそも同じ重力を見ているのか。

全部、

?

である。


19|〈場所〉は、重力を消したのか

1926年は、

〈場所〉によって、

働くものを消すところまで行った。

ならば、

〈場所〉は、

Activity Gravityからの避難所だったのか。

これも早い。

真の無の場所は、

単なる静止ではない。

見る。

映す。

包む。

そして、

無限に働くとも語られる。

だから、

〈場所〉は、

活動を止めたのではなく、

活動/非活動という切り分けそのものを、一度組み替えた

と読む余地がある。

ここで、

われわれの〈処〉と、

また近づく。

しかし、

等号は置かない。

場所|Activity / Inactivityを組み替える?

処|Activity / Inactivityを要求しない?

似ている。

違う。


20|処々不滞

そして、

後期西田には、

臨済から引かれた、

処

まで現れる。

処々不滞。

どの処にも滞らない。

そして、

去住自由。

去る。

住む。

だから、

「西田には処という字がなかった」

とは、

字面についてさえ言えない。

改める。

西田には、〈処〉という独立した切り分けがなかった。

しかも、

ここでの処は、

Stopではない。

滞らない。

去る。

住む。

われわれの札も、

掘り返される。

処|おる?

おる ≠ 留まる

おる ≠ 静止

おる ≠ 休む

おる ≠ 働かない

〈処〉は、

どんどん薄くなる。

それでいい。


21|ある|おる|おこる

最初の三枚へ戻る。

所|ある

処|おる

場|おこる

1926年「場所」を通ったあとでは、

この三枚も、

もう最初と同じではない。

西田の「生滅の場所」は、

場|おこる?

を揺らす。

「唯見る」は、

処|おる?

を揺らす。

「有るものは何かに於てなければならぬ」は、

所|ある

を揺らす。

西田を監査していたら、

こちらの札まで、

監査された。

same cards ≠ same work.

TUPしてしまった。


Ⅴ|OPEN

22|〈おる〉を記述するために、何が必要か

だから、

西田を解決しない。

統一を捨てない。

真正を捨てない。

見ることを捨てない。

働きを捨てない。

制作を捨てない。

行為を捨てない。

課題を捨てない。

ただ、

一枚ずつ聞く。

What does Unity add?

What does True add?

What does Seeing add?

What does Work add?

What does Making add?

What does Task add?

そして、

最後に聞く。

〈おる〉を記述するために、何が必要か。


冬一郎は、

寝ている。

踊っていない。

物を作っていない。

課題を遂行しているようにも見えない。

生命活動は続いている。

だから、

働いている、

と記述することもできる。

しかし、

そう記述しなくてもいい。

1926年の西田なら、

そこに「見る」という別の坑道を掘ったかもしれない。

だが、

冬一郎は、

見ているとも限らない。

寝ている。

夢を見ているかもしれない。

知らない。

それでも、

🐕は、

おる。


西田自身は後年、

『善の研究』を振り返りながら、

フェヒナーが腰掛に休らい、

春の牧場を眺めた話を書いた。

そして自分も、

若いころ、

金沢の街を歩きながら、

夢見るように思索したと書いた。

休らう。

歩く。

夢見る。

哲学は、

そこからも始まっていた。

働いていたのか。

作っていたのか。

課題を遂行していたのか。

知らない。

少なくとも、

そのとき、

西田は、

おった。

だから、

もう少し、

此処におる。

処?


Development Notes|v0.6

GRAVITY ≠ constant

GRAVITY ≠ verdict

1911 ≠ 1926 ≠ 1939

No developmental arrow yet

Subject absent? → too strong

Self / Subject|Unity-function?

Difference works ≠ Difference belongs to Unity

True|What does it add?

1926 場所|於てある

統一する ≠ 於てある

χώρα ≠ 場所

生滅の場所|場・おこる?

働く意味がなくなる

唯見る

Seeing ≠ Being-there / おる

働くものの消失

作用より深い静的存在

1926 ≠ static philosophy

静/動|再監査

見る/働く|再監査

1939|相働く世界

1939|於てある/於て働く

働く|作る

Making|What does it add?

Animal|いまだ Poiesis

“いまだ”|relative to what?

Difference ≠ Deficiency

same phrase ≠ same work

此処|おる?

此処|踊る?

Task|What does it add?

作用がある ≠ 作用として記述する必要がある

処々不滞

去住自由

処|おる?

おる ≠ 留まる

おる ≠ 静止

Activity / Inactivity|Does 処 require the distinction?

所|ある

処|おる

場|おこる

Cut ≠ Ontology

same cards ≠ same work

OPEN


Index of ZURE

主体を消した|Withdrawn
Activity Gravity|Re-Audited
1926 = 処|Not Established
唯見る|Primary Stake
働くものがなくなる|Context Corrected
Difference ≠ Deficiency|Retained
処々不滞|Self-Audit
〈処〉なき〈場所〉|→ 〈処〉なき?〈場所〉

Status|v1.0 Public / N-series OPEN

👉 CABA-03-N-01|v1.0 Public

〈処〉を持って西田哲学へ遇いに行く。
掘ったものによって〈処〉も監査される。

同じ札を持って行く。
同じ札で帰ってくるとは限らない。


N-Series|Manner Candidate

CABA-03-N-01|西田幾多郎、〈場所〉の重力 ── 背負わされた〈場〉と〈所〉と〈処〉|第一部|西田幾多郎篇 |〈処〉なき?〈場所〉


CABA-03-RN|「処」考 ── Editus | 処


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| Drafted Sep 24, 2026 · Web Sep 24, 2026 |