VA-01|Vocabulary Audit 01

つねにすでには、どう「つねにすでに」になったか

『存在と時間』における副詞配置・翻訳・Work

Introduction|v0.2

「つねにすでに」という言い回しを、私は長く使ってきた。現象学や政治思想について書くときにも、日常の会話でも使った。便利な言葉だった。しかし、あるとき、この言葉が少し「偉そう」に聞こえた。

もちろん、これは言語学的な証拠ではない。個人的な違和感にすぎない。だが、その違和感から原文へ戻ってみると、問題は思ったより単純ではなかった。

ハイデガー『存在と時間』には、je schon、schon immer、immer schon、je immer、さらに je schon immer、je immer schon など、je / schon / immer の複数の配置が現れる。とりわけ§18では、je schon immer と je immer schon が das heißt を挟んで連続して用いられている。語彙的な材料が同じでも、その順序と、それらが結びつく統語的構成は同じではない。

では、日本語の「つねにすでに」は、これらの何を訳しているのだろうか。そして、翻訳された表現が反復して用いられるうちに、原文の特定の配置から離れ、日本語の哲学的言説のなかで独自に働くことはあるのだろうか。

本稿は「つねにすでに」の正しい訳語を決定することを目的としない。また、ドイツ語の語順の差にあらかじめ哲学的な意味の差を割り当てることもしない。局所的な原文の配置、その翻訳、そして日本語での受容を区別しながら、それぞれの場所で語が何をしているのかを監査する。


1|Method:Order・Host・Work

本稿では、je / schon / immer の意味を、それぞれの語やその表面上の順序だけから決定しない。観察の単位として、Order、Host、Work の三つを区別する。

Order とは、je schon、schon immer、je schon immer、je immer schon など、問題となる語がテクスト上に現れる順序をいう。Orderの差は観察される事実である。しかし、その差がそのまま意味や機能の差を示すとは仮定しない。

Host とは、それらの副詞または副詞のまとまりが局所的に結びつく統語的構成をいう。たとえば§15の zu Dasein gehören や in dieser Weise sein、§18の sich verweisen や Seiendes als Zuhandenes begegnen lassen などである。Hostは節全体の主題や哲学的文脈を意味しない。まず、副詞がどの構成のなかで働いているかを観察するための局所的な単位である。

Work は、ある語または配置が、その局所で何をしているかを記述するための作業語である。Workを語の固定的な「意味」と同一視しない。また、OrderやHostから機械的に導出されるものとも仮定しない。本稿が問うのは、語順そのものが何を「意味するか」ではなく、ある配置があるHostに置かれたとき、そこでどのようなWorkをしていると記述できるか、である。

本稿では、次の規則を監査の足場とする。

Order alone ≠ Work.
Host ≠ Context.
Translation ≠ Reception.
Search hit ≠ Evidence.

翻訳が原文のOrderを変更または正規化していても、それだけで原文のWorkが失われたとは判定できない。逆に、原文のOrderを表面的に保存していることも、同じWorkを保証しない。

そこで以下では、原文、翻訳、日本語での受容を別々の観察層として扱う。


2|Before Heidegger

je / schon / immer は、ハイデガー以前から働いている

je、schon、immer は、いずれもハイデガーによって哲学的意味を与えられて初めて働き始める語ではない。まず、それぞれが通常のドイツ語において複数の働きを持つことを確認しておく必要がある。

je は、とりわけ注意を要する。Dudenは副詞 je の用法として、一方では「いつか/これまでに」を意味する時間的用法を、他方では je 10 Personen や je ein Exemplar のように、複数の人や物を「それぞれ」に配分する用法を挙げている。さらに jeweils にも「そのつど」と「当該時点における」という用法がある。したがって、je をあらかじめ単純な時間副詞として読むことも、逆にハイデガー固有の「そのつど性」の標識として読むこともできない。

schon も、単純に日本語の「すでに」と一対一対応するわけではない。辞書・文法記述では、ある状態が以前から成立していることだけでなく、基準点や期待との関係を含む複数の用法が区別される。したがって、schon のWorkを時計上の先後だけに還元することはできない。

immer は、持続・反復・恒常性を表すだけでなく、文脈によって「そのつど」に近い働きをする。schon immer も通常のドイツ語として用いられる表現であり、それ自体が哲学固有の語句なのではない。

この語順については、三島憲一がすでに興味深い指摘をしている。

三島は2013年、ハイデガー以来 immer schon を「つねにすでに」と訳すことが常套化していると指摘したうえで、schon immer (immer schon) という二つの語順を併記した日常語の例を挙げている。三島自身は、この場合の schon を時間的な「すでに」とは読まず、immer schon を「どんな場合でもかならず」「いつもかならず」という方向で説明している(三島 2013, 249頁)。

本稿は、この意味解釈そのものを前提とはしない。ここで重要なのは、schon immer / immer schon のOrderの差から安定した意味差を直ちに導くことができないという問題が、日常語の水準ですでに指摘されていることである。

したがって、それぞれの語について唯一の日本語訳を決めることを、本稿の出発点にはしない。

je ≠ いつ
schon ≠ すでに
immer ≠ つねに

これは「訳してはいけない」という意味ではない。それぞれの対応語を、原文を読む出発点から固定しないという読解上の注意である。

同様に、schon immer を二語に分解して「すでに+つねに」と足し合わせれば、そのWorkが得られるとも仮定しない。

Combination ≠ Addition.

通常の語が、特定のHostに置かれたとき、そこで何をしているのか。

Ordinary word first. Heideggerian work second.

この順序を守ったうえで、『存在と時間』へ戻る。


3|In Sein und Zeit

同じ語は、同じ場所にいない

『存在と時間』に戻ると、je / schon / immer は単独で定義されるというより、異なる統語的構成のなかに繰り返し現れる。本節では網羅的な出現頻度を問題にせず、§9、§15、§18という三つの局所を観察する。

3.1|§9:je は何に結びつくか

§9でハイデガーは、分析対象となる存在者について、

sind wir je selbst
Das Sein dieses Seienden ist je meines.

と述べる。さらに同じ局所には、

je in dieser oder jener Weise zu sein
Dasein ist je seine Möglichkeit

といった配置が現れる。

§9では je が selbst、meines、Weise、Möglichkeit と異なる構成のなかで反復されている。

ここから je の固有の哲学的意味を一語で取り出す必要はない。通常のドイツ語においても je は時間的用法だけでなく、個々の項への配分にかかわる用法を持つ。§9で重要なのは、その語が現存在についての selbst、meines、Weise、Möglichkeit という記述に繰り返し組み込まれていることである。

したがって、

je = WHEN
je = WHO
je = HOW

のいずれかに固定することはしない。

WHEN | WHO | HOW ? は、語義の分類ではなく、配置を発見するための探索上の問いにとどまる。

3.2|§15:二つの配置

§15では、同じページに二つの異なる配置が現れる。

まず、存在了解について、

das je schon zu Dasein gehört

と述べられる。

その後、道具との日常的な交渉を論じる箇所では、

Das alltägliche Dasein ist schon immer in dieser Weise

とされ、その直後に、扉を開ける際に取っ手を使用するという例が続く。

ここでは、

je schon | Host: zu Dasein gehören

と、

schon immer | Host: in dieser Weise sein

を区別して記録できる。

取っ手の例は schon immer という語の意味を説明するための例ではない。日常的現存在が道具との交渉のうちにあることを論じる局所に、この配置が置かれている。

したがって、ここから schon immer の一般的意味を抽出するのではなく、どの配置が、どのHostに置かれているかをまず記録する。

なお、同じ§15には、schon を含まない別の配置も現れる。

Zum Sein von Zeug gehört je immer ein Zeugganzes ...

ここでは je immer が ein Zeugganzes を含む構成に置かれている(S.68)。本稿ではこの配置を詳しく分析しない。je / schon / immer の組合せが一つの固定句に還元できないことを示す追加の出現例として記録するにとどめる。

Occurrence ≠ Meaning.

3.3|§18:Order Pair

§18では、Orderの問題がさらに明瞭になる。

ハイデガーは、

Dasein verweist sich je schon immer ...

に続いて、

das heißt

を挟み、

es läßt je immer schon ... Seiendes als Zuhandenes begegnen

と書く。

(S.86。語順はMacquarrie & Robinson, Being and Time (1962), p.119 n. に引かれたドイツ語原文による。ニーマイヤー版当該頁との現物照合は未了。)

ここには同じ三つの語がある。

je | schon | immer

しかしOrderは、

je schon immer

と、

je immer schon

で異なる。

同時にHostも、

sich verweisen

と、

Seiendes als Zuhandenes begegnen lassen

で異なる。

したがって観察できるのは、

same lexical materials
different order
different host
explicit argumentative connection: das heißt

というところまでである。

das heißt は、後続文を先行文の言い換えないし説明として接続する。ただし、この接続が両文の完全な同義性を保証するわけではない。

それでも、相互に説明関係に置かれた二つの文のなかで je / schon / immer のOrderが入れ替わっている以上、少なくともこの局所について、Orderの差だけを根拠として意味またはWorkの差を立てることはできない。

この一対から「語順が異なればWorkも異なる」とは言えない。逆に「語順はWorkに関係しない」と結論することもできない。

Order alone ≠ Work.

ここでWorkを一度だけ局所的に記述してみよう。

je schon immer / je immer schon の両配置は、現存在がまず孤立した存在者を認識し、その後に道具的な連関を付与するという順序を記述しているのではない。いずれも、存在者が道具として出会いうることを、現存在がすでに関与しているBewandtnisの連関のうちに位置づける議論に参与している。

本稿でいうWorkとは、このような局所的な論証上の働きを記述するための語である。


4|apriorisches Perfekt

何が「すでに」成り立っているのか

§18でハイデガーは、je schon を含む表現を、異様なほど長い複合構成へ組み込む。

Je-schon-haben-bewendenlassen

そして、この Je-schon-haben-bewendenlassen を、

ein apriorisches Perfekt

と呼び、それが現存在自身の存在様式を特徴づけると述べる。

ここでまず注意すべきなのは、Perfekt を通常の文法用語としての「完了形」だけで読むことではない。

apriorisches Perfekt ≠ grammatical perfect alone.

問題になっているのは、過去のある時点で出来事が完了したという単純な時間関係ではない。ハイデガーがここで論じているのは、存在者が道具として出会いうるためのBewandtnisの連関である。

個々の存在者を主題的に認識してから、その連関をあとから構成するのではない。存在者との具体的な交渉において、その存在者が何において、何のために関わるものとして出会いうるかが、すでに開かれている。

したがって、この箇所の je schon を単独で取り出して「そのつど+すでに」と分解するだけでは、Je-schon-haben-bewendenlassen のWorkを十分には記述できない。je schon はここで、独立した副詞句のまま置かれているのではなく、haben-bewendenlassen とともに、より大きな構成へ組み込まれている。

重要なのは、schon が何を意味するかだけではなく、

何が schon なのか

である。

je schon

と、

Je-schon-haben-bewendenlassen

は、同じ文字列を含んでいる。しかし、それだけで同じWorkをしているとは言えない。

Same string ≠ Same work.

また、ここで apriorisch を、時間的に最初に生じた出来事という意味へ単純化することもできない。問題になっているのは、世界の連関が最初に成立した瞬間ではなく、具体的な出会いが可能であるとき、その出会いに先立ってすでに働いている構造である。

prior ≠ first event

これも、語の辞書的定義ではなく、本稿における読解上の注意として置く。


5|Translation

何が日本語になったのか

原文のOrderだけからWorkを決定できないのであれば、翻訳についても、原文の語順がそのまま保存されているかどうかだけで評価することはできない。

翻訳では、語彙、語順、統語構成、読みやすさ、既存の訳語慣行などのあいだで選択が行われる。

したがって本節では、「どの訳が正しいか」を問わない。

問うのは、

What does translation stabilize?

である。

5.1|同じ日本語になる場合

細谷貞雄訳では、§15の近接した二箇所に現れる異なる配置が、同じ日本語によって訳されている。

je schon | 「いつもすでに」

schon immer | 「いつもすでに」

原文ではOrderが異なるが、細谷訳ではいずれも「いつもすでに」となる(ハイデガー、細谷貞雄訳『存在と時間 上』、筑摩書房、1994年、159–160頁。原著 S.67–68)。

これは、それだけで誤訳を意味しない。

前節までに見たように、原文のOrderの差だけからWorkの差を確定することはできないからである。

ここで確認できるのは、翻訳が異なる原文配置を同じ日本語配置へ正規化する場合がある、ということである。

Different source configurations | Same translated configuration.

5.2|異なる日本語になる場合

一方、永江朗による熊野純彦訳の紹介では、

je schon | 「そのつどすでに」

immer schon | 「つねにすでに」

という異なる訳が引用されている。

この引用が訳書本文を正確に反映しているならば、細谷訳とは異なり、原文の配置差を日本語でも可視化する翻訳処理が存在することになる。

ただし、本稿では熊野訳本文そのものを直接照合していない。

したがって、この例は現段階では二次資料による対照例として扱う。

Evidence status: SECONDARY / TO VERIFY.

細谷と熊野の例を比較して重要なのは、どちらが正しいかを判定することではない。

少なくとも、翻訳処理は一様ではない。

異なるOrderを同じ日本語配置へ正規化することもあれば、異なる日本語によって可視化する処理もありうる。

したがって、

Order preservation ≠ Work preservation.
Order normalization ≠ Work loss.

である。

5.3|Translation token と Reception phrase

さらに区別しなければならないことがある。

訳書のなかの、

「つねにすでに」

は、特定の原文を訳している。

しかし、日本語の論文や哲学的記述のなかで、

「現存在はつねにすでに……」

と研究者自身の文章として使われるとき、その表現は必ずしも特定の immer schon を逐語的に提示しているわけではない。

本稿では、このように特定の原文tokenの訳として提示されず、日本語の論述を組み立てるために再使用される「つねにすでに/常に既に」を、便宜上 Reception phrase と呼ぶ。

Translation token ≠ Reception phrase.


6|Reception

「つねにすでに」は、原文から離れて歩けるか

「つねにすでに」という日本語の常套化は、本稿が初めて指摘する問題ではない。

三島憲一は2013年、加藤哲理『ハンス=ゲオルグ・ガーダマーの政治哲学』の書評において、ハイデガー以来 immer schon を「つねにすでに」と訳すことが常套化していると指摘している(三島 2013, 249頁)。

興味深いのは、三島がここで批判的に検討している「つねにすでに」が、ハイデガー自身の文章の訳ではないことである。

三島によれば、加藤は同書7頁で、ガーダマーの一節を「つねにすでに」を含む日本語で訳している(三島 2013, 249頁)。本稿では加藤の当該頁および対応するガーダマー原文を直接照合していないため、ここでは三島による報告として扱う。

したがって、少なくとも2013年には、「つねにすでに」がハイデガーの特定の原文tokenだけに結びついた表現ではなく、別のドイツ語哲学者を訳す場面にも現れること、そしてその使用を三島が「ハイデガー以来」の慣行として認識していたことが確認できる。

この点は、細谷訳§15が je schon / schon immer の双方を「いつもすでに」と訳していることとも対照的である。

したがって、三島のいう「ハイデガー以来」を、特定の一つの邦訳から単線的に派生した翻訳史として読むことはできない。

Translation history ≠ Reception history.

6.1|Reception phrase

日本語の研究文献を見ると、「常に既に/つねにすでに」が、特定の原文tokenの訳としてではなく、研究者自身の記述を構成する表現として使われる例がある。

森田孝樹は1998年のハイデガー研究において、現存在について、

「常に既にそこへと投げ込まれている『情態性』」

と記述している(森田 1998)。この表現は論文の抄録に現れ、その文自体が特定の immer schon の逐語訳として提示されているわけではない。

また田村未希は、前期ハイデガーの解釈学的現象学を扱った博士論文の要旨において、

「常に既に『解釈済み』の了解が再生産されていく」

と記述している(田村 2019)。ここでも「常に既に」は、著者自身の分析文を構成している。

これらの例では、「常に既に」は特定の原文tokenの訳として明示されるのではなく、日本語の哲学的論述を構成するphraseとして使用されている。

ただし、Reception phraseであることは、その表現が原文や翻訳の履歴から切断されていることを意味しない。

むしろ、三島の指摘は、その履歴そのものが「ハイデガー以来」の慣行として認識されていることを示している。

6.2|何が常套化したのか

ここで問いを少し変える必要がある。

本稿の出発点では、日本語訳がドイツ語の複数のOrderを「つねにすでに」という一つのOrderへ固定した可能性を考えていた。

しかし、細谷訳§15はその単純な仮説を支持しない。

そこでは、

je schon

も、

schon immer

も、

「いつもすでに」

と訳されている。

一方、二次資料によれば、熊野訳では je schon / immer schon が異なる日本語によって訳し分けられる場合がある。

そして三島は、「つねにすでに」という別の日本語配置が、すでに「ハイデガー以来」の常套として認識されていることを指摘する。

すると問うべき「固定」は、

原文のOrderの固定

だけではなく、

日本語におけるphraseの常套化

でもある。

両者は同じではない。

Order stabilization ≠ Phrase stabilization.

では、「つねにすでに」は、いつ、誰によって、どの翻訳を経由して常套化したのか。

本稿はこの問いには答えない。

三島の「ハイデガー以来」という指摘は重要な先行証言である。しかし、それ自体が翻訳史的な起源を特定するものではない。

Origin ≠ Stabilization.

起源、最初の訳例、普及、そして特定の原文tokenから離れた再使用は、それぞれ別に調査する必要がある。

6.3|同じphraseは、同じWorkをするか

Reception phraseになったからといって、そのWorkが一つに固定されるわけでもない。

「常に既に」は、被投性・情態性を記述する文章にも現れ、解釈や了解を記述する文章にも現れる。

文字列は同じである。

しかし、置かれている構成も、議論の局面も同じではない。

したがって、日本語側でも、

Same phrase ≠ Same work.

である。

「つねにすでに」が一つの哲学的な常套句になったとしても、そのことは、一つの固定された意味またはWorkを獲得したことを意味しない。

6.4|「偉そうだ」はどこから来たのか

ここでようやく、本稿の出発点だった違和感へ戻ることができる。

「つねにすでに」が「偉そう」に聞こえたことは、immer schon の語義について何も証明しない。

しかし、その違和感は別の問題を露出させた。

通常のドイツ語でも使用される schon immer / immer schon が、日本語では哲学的な常套句として認識され、さらに特定の原文tokenを直接提示しない研究者自身の文章でも反復されている。

だとすれば、「偉そう」という感触は語義ではなく、

register | accumulated use | reception

の側に生じている可能性がある。

本稿は、その可能性を証明するものではない。

ただし、最初の違和感を、原文の意味についての証拠ではなく、翻訳と受容を区別するための出発点として位置づけ直すことはできる。


7|Conclusion

「つねにすでに」は、どう「つねにすでに」になったか

本稿は、「つねにすでに」という日本語への小さな違和感から出発した。

当初考えたのは、『存在と時間』における複数のドイツ語配置が、日本語訳によって「つねにすでに」という一つの語順へ固定されたのではないか、という可能性だった。

しかし、原文と翻訳を局所的に照合すると、この仮説をそのまま維持することはできない。

『存在と時間』には、je schon、schon immer、immer schon、je immer、je schon immer、je immer schon など、複数の配置が存在する。

とりわけ§18では、同じ三語からなる je schon immer と je immer schon が、異なるHostに置かれながら das heißt によって接続される。

この局所的な一対から、Orderの差だけを根拠としてWorkの差を立てることはできない。

Order alone ≠ Work.

翻訳の処理も一様ではない。

細谷訳§15では je schon と schon immer がともに「いつもすでに」と訳され、異なる原文配置が同じ日本語配置へ正規化されている。

一方、二次資料によれば、熊野訳には je schon と immer schon を異なる日本語で訳し分ける例がある。

したがって、原文の複数の配置が、一律に一つの日本語Orderへ固定されたと一般化することはできない。

さらに、日本語の哲学的言説では、「つねにすでに/常に既に」が、特定の原文tokenの直接的な翻訳としてではなく、研究者自身の記述を構成する表現として再使用されている。

ここで区別されるのは、

Translation token | Reception phrase

である。

そして三島憲一が2013年に immer schon を「つねにすでに」と訳すことの常套化をすでに問題にしていたことは、このphraseが単なる一訳語を越えて、日本語の哲学的な使用履歴を持つことを示している。

しかし、このことも「つねにすでに」が一つの固定されたWorkを獲得したことを意味しない。

Same phrase ≠ Same work.

したがって、本稿の問い、

「つねにすでに」は、どう「つねにすでに」になったか。

に、一つの起源を答えることはできない。

また、本稿の目的にとって、その必要もない。

ここで観察できるのは、少なくとも、原文の複数の配置、翻訳における複数の処理、日本語での反復的な使用を、同じ出来事として扱うことができないということである。

Source ≠ Translation ≠ Reception.

「つねにすでに」は、一度だけ翻訳されて完成した表現というより、翻訳され、引用され、説明され、再使用されるなかで、日本語の哲学的言説において働くphraseになった、と記述するほうがよいだろう。

ただし、それがいつ、誰によって、どの経路で常套化したのかは、本稿では確定しない。

Origin ≠ Stabilization.

その問いは、日本語「つねにすでに」そのものの翻訳史・受容史として、別の調査を必要とする。

7.1|違和感へ戻る

では、最初の「偉そうだ」という違和感は何だったのか。

本稿は、その感触を説明しきったわけではない。

しかし少なくとも、それを immer schon の意味そのものへ帰属させることはできなくなった。

通常のドイツ語としても用いられる表現が、翻訳と哲学的受容を経て反復されるとき、その日本語には、原語の語義だけでは説明できないregisterが蓄積する可能性がある。

「偉そうだ」は、そのことの証拠ではない。

それは、この監査を始めるきっかけだった。

原文へ戻った結果、違和感は解消されたのではない。

置き場所が変わった。

語義ではなく、翻訳と受容のあいだへ。

7.2|残された問い

そして、もう一つの表現が残る。

Je-schon-haben-bewendenlassen をハイデガーは ein apriorisches Perfekt と呼んだ。

日本語には、

「もう、そうなっている」
「そうなってしまっている」
「そうなっちゃっている」

という言い方がある。

両者は同じではない。

Perfekt ≠ 「ちゃう」.
Attraction ≠ Equivalence.

それでも、いま認識している地点を出来事の出発点として措定しないという点で、両者がどのように接近し、どこで離れるのかという問いは残る。

本稿では、その問いには入らない。

入ると、別の坑道が開いちゃうからである。


References|working

Heidegger, Martin. Sein und Zeit. Max Niemeyer Verlag.

Heidegger, Martin. Being and Time. Translated by John Macquarrie and Edward Robinson. Harper & Row, 1962.

ハイデガー、マルティン『存在と時間 上』細谷貞雄訳、筑摩書房、1994年。

三島憲一「書評『ハンス=ゲオルグ・ガーダマーの政治哲学――解釈学的政治理論の地平』(加藤哲理著、創文社、2012年)」『社会思想史研究』37号、2013年、243–250頁。

森田孝樹「ハイデッガーにおける死の概念――『存在と時間』における『死』の分析から」『国際医療福祉大学紀要』3、1998年、79–88頁。

田村未希「存在と知――前期ハイデガーの解釈学的現象学」東京大学大学院人文社会系研究科、2019年度博士論文。

永江朗「ハイデガー『存在と時間』に頻出する『つねにすでに』を考える――永江朗『四苦八苦の哲学』より」じんぶん堂、2020年5月19日。

Dudenredaktion, entries for je, schon, immer.
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