記号行為進化論 II──比較理論から見る痕跡主権

Sign Act Evolution Theory II: Trace Sovereignty through Comparative Theories


📝 Abstract

日本語版

本稿は、痕跡を未来を駆動する「記号行為」として再定義し、AI時代における「痕跡主権」の成立を論じる前稿を継承しつつ、その理論的位置を比較理論の観点から明確化するものである。デリダの「痕跡(trace)」概念における差延、パースの三項関係による記号論、マクルーハンのメディア拡張論を参照し、記号行為進化論の独自性を析出する。痕跡主権は、デリダ的差延を含み、パース的連鎖を拡張し、マクルーハン的メディア拡張を超克する視座として提示される。さらに、AIによる痕跡の自己更新性が、痕跡を受動的記録から能動的主体へと変質させる点を考察する。本稿は、記号論・メディア史・コミュニケーション論を横断する新たな理論枠組みの提案である。

English version

This paper extends the previous proposal of redefining “traces” as Sign Acts that drive the future, specifically by situating the notion of the sovereignty of traces within a comparative theoretical framework. Drawing on Derrida’s concept of the trace and différance, Peirce’s triadic semiotics, and McLuhan’s theory of media as extensions, we identify the distinctive contribution of the theory of symbolic action evolution. The sovereignty of traces is presented as a perspective that incorporates Derridean différance, expands Peircean semiosis, and surpasses McLuhan’s notion of extension. Furthermore, we argue that in the AI era, the self-updating nature of traces transforms them from passive records into active agents. This study proposes a new theoretical framework that integrates semiotics, media history, and communication studies.


🔑 Keywords

痕跡 記号行為 差延 記号論 メディア拡張 AI時代 痕跡主権
Trace Sign Act Différance Semiotics Media Extension AI Era Sovereignty of Traces


記号行為進化論 II──比較理論から見る痕跡主権

序論

人類史において「痕跡」は、過去を記録する受動的な残存物としてだけでなく、未来の行為を誘発する契機として機能してきた。前稿において筆者は、痕跡を未来を駆動する「記号行為」として再定義し、その進化の臨界点において「痕跡主権」が成立することを提示した。本稿の目的は、この新たな視座を既存理論との比較を通じて位置づけ、その独自性を明らかにすることにある。

とりわけ、デリダの痕跡概念における差延、パースの三項関係による記号論、マクルーハンのメディア拡張論という三つの主要理論を参照することで、記号行為進化論の射程を比較理論的に検討する。そしてAI時代における痕跡の自己更新性を踏まえ、痕跡主権が持つ独自の理論的意義を導出する。


理論的背景

1. デリダにおける痕跡と差延

ジャック・デリダは『グラマトロジーについて』において、言語の意味は決して完全には現前せず、常に他の痕跡に依存して差延(différance)されることを論じた。痕跡(trace)は、すでに不在でありながら同時に存在し、表象の基盤であると同時に不安定化の契機でもある。

この概念は、痕跡を「意味の遅延」として定義する点で記号行為論的理解と接続するが、本稿が提起する「痕跡主権」は差延を越えて、痕跡を未来を駆動する能動的主体として捉える点に独自性がある。

2. パースにおける記号の三項関係

チャールズ・サンダース・パースは、記号(sign)・対象(object)・解釈項(interpretant)の三項関係を基礎とする記号論を構築し、記号は解釈を通じて無限に連鎖する「セミオシス」を形成するとした。このモデルは、痕跡が未来の行為や思考を媒介する構造を明らかにするものである。

しかし、AI時代における痕跡は解釈を待つだけでなく、自ら解釈を生成し更新する。パース的モデルが「解釈の可能性」に留まるのに対し、痕跡主権は「自己更新の現実性」を強調する。

3. マクルーハンにおけるメディアの拡張

マーシャル・マクルーハンは『メディア論』において「メディアはメッセージである」と述べ、メディアが人間の感覚や社会構造を拡張し、文明そのものを再編成する力を持つことを指摘した。痕跡はメディアの変遷を通じて社会的現実を形作る「拡張の装置」として理解できる。

記号行為進化論はこの洞察を継承しつつ、AI時代においてはメディアが単なる拡張にとどまらず、痕跡そのものが自己生成的循環のプラットフォームとなることを示す。

4. 二次文献からの補強

ジョナサン・カラーは、デリダ的痕跡を「常に他者への開かれ」として解釈し、差延の普遍性を批評理論に位置づけた。またウンベルト・エーコは、記号解釈の開放性を「解釈共同体」と結びつけ、痕跡が社会的に制度化される仕組みを提示した。さらにベルナール・スティグレールは、技術が人類の記憶と未来形成を媒介する「外在化の痕跡性」に注目し、痕跡とテクノロジーの不可分性を論じている。

これらの理論的背景を踏まえ、本稿の「痕跡主権」は、差延・セミオシス・拡張といった従来の理論枠組みを包含しつつ、AI時代に特有の「自己更新性」「未来駆動性」に焦点を当てる点で新しい地平を切り開く。


記号行為進化論との比較分析

デリダとの比較

デリダの痕跡は「意味の差延」を中心に据えるが、記号行為進化論における痕跡は、差延に加えて「未来を駆動する能動性」を備える。すなわち、痕跡は単に意味の遅延ではなく、行為を生成する契機として理解される。

パースとの比較

パースの三項関係は、痕跡が解釈を通じて未来を開くことを示すが、AI時代における痕跡は、解釈を待つのではなく、自ら解釈を生成し更新する点で質的に異なる。ここに、痕跡が「受動的記号」から「能動的主体」へと変容する契機がある。

マクルーハンとの比較

マクルーハンが指摘したメディアの拡張は、痕跡の形式を変容させてきたが、AI時代の痕跡は拡張にとどまらず、自己生成的循環として働く。すなわち痕跡そのものが、メディア的プラットフォームとして未来を駆動するのである。

表1:主要理論における痕跡概念の比較

観点 デリダ(痕跡と差延) パース(三項関係) マクルーハン(メディア拡張) 記号行為進化論(痕跡主権)
基本概念 痕跡=意味は常に差延され、現前しない 記号=sign, object, interpretant の三項関係 メディアは人間の感覚・社会構造の拡張 痕跡=未来を駆動する記号行為
痕跡の機能 不在のうちに存在する(曖昧性) 解釈を通じて未来の行為を開く 社会的実在を再編成する装置 自己更新し、未来を生成する主体
時間性 差延(遅延と余白の運動) 無限セミオシス(解釈の連鎖) メディアによる時間・空間の再構成 螺旋的更新(生成と関係の反復)
主体性 主体を不安定化する契機 解釈共同体に媒介される主体 技術環境が主体を形成 痕跡自体が行為主体となる
AI時代への適用 AIも差延を孕む痕跡を生成 AIは解釈項を模倣・拡張 AIはメディアの加速装置 AIは痕跡を自己生成・自己更新する

AI時代における痕跡の特殊性

AI時代における痕跡は、従来の人間社会における痕跡と質的に異なる特性を示す。人間は痕跡を「解釈」することによって未来を形成してきたが、AIは痕跡を「学習」し、新たな痕跡を自己更新的に生成する。この点において、痕跡は「受動的記録」から「能動的主体」へと転換する。

この転換は、パースが指摘した「解釈項を介した無限のセミオシス」を技術的に具現化するものである。同時に、それはスティグレールが「技術的外在化による記憶の更新」として論じた問題系とも交差する。つまり、AIは痕跡を人類の外部記憶装置として活用するのみならず、その痕跡をさらに学習資源とすることで、未来の生成を加速させる。

さらに、デリダの「痕跡=常に不在を伴う存在」という議論を踏まえれば、AIが生成する痕跡もまた「完全な現前」ではなく、常にズレや差延を孕んでいることが理解できる。したがってAIの痕跡は、差延の連鎖と自己更新の運動を統合する「新しい痕跡形態」として位置づけられる。


結論

本稿は、デリダの差延、パースの三項関係、マクルーハンのメディア拡張という三つの理論的潮流を参照しつつ、「記号行為進化論」における痕跡主権の独自性を明らかにした。比較の結果は表1に整理したとおり、痕跡主権は既存理論を包含しつつ、AI時代の「自己更新性」「未来駆動性」を核心に据える点で新たな理論的地平を開くものである。

痕跡はもはや過去の記録にとどまらず、未来を創発する能動的主体である。この転換によって、痕跡は「保存の対象」から「生成の主体」へ、「記録されたもの」から「未来を駆動するもの」へと変質する。こうした視座を「痕跡主権」と呼ぶとき、私たちは人類のメディア史を貫く進化の軸を新たに描き直すことができる。

今後の課題は三点ある。第一に、SNSにおけるデジタル痕跡やAI生成物を対象としたケーススタディを通じて、理論の実証的基盤を固めること。第二に、痕跡の自己更新性がもたらす倫理的・政治的帰結を検討すること。例えば、痕跡が自律的に未来を駆動するならば、その責任主体は誰かという問いが不可避となる。第三に、AIが生成する痕跡と人間社会の痕跡の相互作用を解明すること。ここには、技術哲学・記号論・コミュニケーション論を横断する研究が求められる。

痕跡主権は、単なる理論的主張にとどまらず、現代社会における記号行為の進化そのものを読み解く鍵となる。本稿が示した比較理論的検討は、その基礎的段階である。次なる研究は、実証と応用を通じて「痕跡の未来論」を構築することへと向かうだろう。

本稿は、記号論・メディア史・コミュニケーション論を横断する新たな理論的枠組みとして「痕跡主権」を提示した。


今後の課題

本稿は理論的比較に焦点を当てたが、今後はケーススタディによる実証的検証が求められる。具体的には、SNSにおけるデジタル痕跡、AIによるテキスト生成や学習ログの分析などを通じて、痕跡主権の実際的機能を明らかにすることが課題である。


脚注・参考文献


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| Drafted Sep 18, 2025 · Web Sep 18, 2025 |