痕跡概念研究史──差延・セミオシス・拡張からAI時代へ

A Historical Study of the Concept of Trace: From Différance, Semiosis, and Extension to the Age of AI


📝 Abstract

日本語版

本稿は、20世紀以降の思想における「痕跡概念」の系譜を整理し、その現代的意義を検討するものである。デリダにおける差延としての痕跡、パースの三項関係に基づくセミオシス、マクルーハンのメディア拡張論、スティグレールの技術哲学における外在化の痕跡を主要な柱として取り上げ、それぞれの理論的背景と相互関係を論じる。これらを総合的に整理することで、痕跡概念は「意味の不在性」「未来への連鎖」「社会的記憶の拡張」「外在化による記憶の更新」という四つの位相に収斂することが示される。さらに、本稿はこの系譜をAI時代に接続し、痕跡の自己更新性がいかに新たな理論的課題を提示するかを展望する。

English version

This paper examines the genealogy of the concept of “trace” in twentieth-century thought and explores its contemporary significance. It focuses on Derrida’s trace as différance, Peirce’s triadic semiosis, McLuhan’s theory of media as extensions, and Stiegler’s philosophy of technics as exteriorized memory. By synthesizing these approaches, the concept of trace can be categorized into four dimensions: the absence of presence, the infinite chain toward the future, the expansion of social memory, and the renewal of memory through exteriorization. The paper further connects this genealogy to the AI era, highlighting how the self-updating nature of traces introduces new theoretical challenges.


🔑 Keywords

痕跡  差延 セミオシス メディア拡張 技術的外在化 記号行為 AI時代
Trace Différance Semiosis Media Extension Technological Exteriorization Sign Act AI Era


I. 序論

痕跡という概念は、20世紀思想において繰り返し現れた基底的なテーマである。痕跡は単なる残存物ではなく、意味や記憶、さらには社会の構造を形づくる根本的な契機として論じられてきた。デリダは痕跡を言語の存在論的基盤として位置づけ、パースは記号連鎖の核心に痕跡性を見出し、マクルーハンはメディアの拡張が痕跡を社会的に組織化することを示した。さらにスティグレールらの技術哲学は、痕跡を人類の記憶と未来を媒介する技術的外在化の契機と捉え直した。本稿の目的は、こうした痕跡概念の系譜を整理し、その理論的展開がいかにAI時代に接続され得るかを展望することである。


II. デリダにおける痕跡

ジャック・デリダは『グラマトロジーについて』において、言語の意味は常に他の痕跡に依存し、決して完全に現前することはないと論じた。痕跡は「不在のうちに存在するもの」であり、差延(différance)の運動そのものを指し示す。これは存在を基礎づけるものが常に不安定であり、他者への開かれを孕んでいることを意味する。批評理論においては、CullerやGaschéらがこの概念を精緻化し、脱構築の核心をなす理論として展開した。デリダにおける痕跡は、記号論的意味生成の根本条件であり、意味が不断に遅延するという事態を指し示す。


III. パースにおける記号と痕跡性

パースは、記号を sign, object, interpretant の三項関係として定式化し、解釈が新たな解釈を誘発する「無限セミオシス」の過程を提起した。ここで痕跡は、解釈項に媒介されて未来の行為や思考を開く構造として捉えられる。エーコはこの枠組みを発展させ、記号の解釈共同体における開放性を論じ、セベオクは人間言語のみならず動物コミュニケーションを含めた広義の記号生態系に痕跡性を見出した。パース的記号論は、痕跡を未来の生成に連鎖的に関与するものとして理解する枠組みを提供している。


IV. マクルーハンにおける痕跡の技術媒介性

マクルーハンは『メディア論』において「メディアはメッセージである」と主張し、メディアが人間の感覚を拡張し、社会の組織そのものを変容させることを論じた。ここで痕跡は、技術的な外部装置を通じて社会的記憶として制度化される現象と理解できる。印刷術は痕跡を大衆社会の編成原理とし、電子メディアは痕跡を即時的かつグローバルに拡張した。ポストマンやキットラーら後続の研究者は、メディアがいかに社会の記憶形式を規定するかを論じ、痕跡の技術媒介性を強調した。痕跡はここで、社会的現実の編成装置として現れる。


V. 技術哲学における痕跡(補論)

ベルナール・スティグレールは『技術と時間』において、技術を「外在化された記憶」として捉え、人類の歴史が常に痕跡的技術に媒介されてきたことを論じた。ここで痕跡は、人間の記憶能力を超えて未来を形づくる力として働く。デリダ自身も『アーカイブの病熱』において、技術的記録装置が記憶の構造を規定することを指摘しており、痕跡の技術的側面は哲学的にも深く検討されている。こうした議論は、痕跡を単なる言語や表象の問題にとどめず、技術的環境との不可分の関係に置くものであり、AI時代に直接接続する重要な視座を提供する。


VI. 総合的整理

以上を総合すると、痕跡概念は大きく四つの位相に整理できる。第一に、デリダの差延が示す「意味の不在性と開かれ」。第二に、パースのセミオシスが示す「未来への連鎖」。第三に、マクルーハンのメディア論が示す「社会的記憶の拡張」。第四に、スティグレールの技術哲学が示す「外在化による記憶の更新」である。これらは一見異なる文脈に属しているが、いずれも痕跡を「未来を形づくる力」として捉える点で収斂している。この整理を通じて、痕跡概念は思想史を横断する普遍的テーマであることが浮かび上がる。


VII. 結論:AI時代への接続

AI時代において、痕跡は新たな局面を迎える。AIは痕跡を単に保存・解釈するのではなく、学習資源として取り込み、自律的に新たな痕跡を生成し続ける。この「自己更新性」は、従来の痕跡概念を包含しつつも質的に異なる次元を開く。本稿で整理した痕跡概念の系譜は、AI時代における「痕跡主権」の理論的背景を提供しうるものである。今後は、デジタル痕跡とAI生成物の相互作用を具体的に分析し、痕跡がいかに社会や未来を駆動するかを解明することが課題である。


📚 参考文献

デリダ関連

パース関連

マクルーハン関連

技術哲学・補論関連


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| Drafted Sep 18, 2025 · Web Sep 18, 2025 |