朝メモ|editus LOCUS から「都合よくつながった」まで
1|editus LOCUS|排泄処
まずは食ってみる。
摂取すれば排泄する。
そして、編輯しちゃう。
ただし、外から見えるものを分ける必要がある。
摂取は、内部化として観測される。
排泄は、外部化として観測される。
編輯は、観測装置によって部分的に露出する。
生命では、摂取が「外にあったものの消失」として見えることがある。
AIでは、入力されたものが画面や記録に残ることもある。
Internalization ≠ Disappearance.
一方、排泄されたものは外に現れる。
AIなら、応答、ファイル、diff、commit、branch、ログなど。
だからEAT-IFに置かれているものは、編輯そのものというより、まず外部化され、置かれたTraceとして観測できる。
editus LOCUS|排泄処
さらに、
排泄物 ≠ Waste.
排泄されたTraceがWasteなのか、Stockなのか、Resourceなのかは、次のLocusとの関係で変わりうる。
生命とAIの内部機構を同一視する必要もない。
生命とAIは、editus LOCUS|排泄処。
ひとまず、この観測面に並べてみる。
2|TUP観測🔭マナー
編輯は直接丸ごと見えるわけではない。
胃カメラを入れるように、観測装置を置く。
途中稿。
ログ。
参照Trace。
diff。
commit。
branch。
別AIによる監査。
ただし、
Observed Trace ≠ TUP.
胃カメラ映像が消化そのものではないように、観測されたTraceもTUPそのものではない。
しかも観測装置は透明とは限らない。
EAT-IFでは実際、監査文が別のLocusへ移される途中で「確認」が「食い違い」へ変わった。
見るための装置そのものがTraceをずらした。
そこで問いは二つになる。
どう見れば、何が見えるのか。
どう見たことで、何が変わったのか。
Development Note の暫定杭:
摂取|内部化として観測される
編輯|観測装置によって部分的に露出する
排泄|外部化として観測されるInternalization ≠ Disappearance.
Observed Trace ≠ TUP.
Observation ≠ Transparency?editus LOCUS|排泄処
3|共同排泄処
ここからメディアへ横ずれ。
SNSは共同排泄処。
複数の editus LOCUS から外部化されたTraceが、一つの共有された処へ置かれる。
そしてSNSは、
公衆トイレの落書き化
する。
誰かが書く。
誰かが読む。
書き足す人もいる。
読んだだけで去る人もいる。
読まれたこと自体は必ずしも見えない。
次のTraceが出てきたとき、何らかのEncounterがあったことが露出する場合がある。
昨日の、
Re:M / Non Re:M
にもつながる。
さらに、
blog|個室トイレ
SNS|公衆トイレ
というメディア配置も出た。
EAT-IFは、冗談半分ながら、
研究用採便室
TRACE-0001、0002、0003……と検体番号まで振ってある。笑
4|個体から個処へ
公園ベンチ杭。
個体から個処へ。
個所から此処へ。
ここから理論側の言い換え。
主体論・身体論から LOCUS へ。
座標からダイクシスへ。
「個」を消すのではない。
個体として閉じて考えるところから、何かが出入りし、Encounterし、Traceが残る処として見る方へ。
また「場所」を座標として固定するところから、
此処
へ。
此処は、単なる位置情報ではない。
誰が、いつ、どのLocusから「此処」と指すかによって露出する。
5|Canis lupus とダイクシス/AIとダイクシス
ここで冬一郎が入ってくる。🐕
Canis lupus とダイクシス
犬には身体的位置がある。
しかし、人間のように「ここ」「そこ」と言語的に指示していることをそのまま確認できるわけではない。
向く。
止まる。
振り返る。
戻る。
道を選ぶ。
そうした所作から、身体的な定位/指示をどう観測できるか。
逆にAIは、
「ここでは」
「先ほど」
「この文章」
「私は」
「それ」
と、言語的ダイクシスを大量に生成する。
しかし、その「此処」を支える身体的位置は自明ではない。
conversationなのか。
fileなのか。
branchなのか。
commitなのか。
Webなのか。
そこで、
AIは何処から「此処」と言うのか。
昨日の、
Whose TUP?
が、
Whose “here”?
Whose “I”?
Whose “now”?
へ横ずれする。
6|都合/番う/つながる
さらに散歩は横道へ。
プロンプトと道具化・都合化
つごう/つがう/番う
語源的に「都合」と「番う」を同一起源とは言えない。
ただ、意味の動きとして、
あわせる。
つなぐ。
つながる。
が露出した。
プロンプトを、
「AIをこちらの目的へ合わせる道具」
としてだけ見るのではなく、
都合よくつがう。
というMannerとして見られないか。
永久に結合する必要はない。
その時、その処、そのEncounterで、ひとまず番う。
そして、
都合よくつがう。
都合よくつながる。
都合よくつながった。
最後だけ過去形。
ここが効く。
つなぐは行為。
つながるは生成。
つながったはTrace。
つながりは、先に設計されるとは限らない。
あとから振り返って、
あ、つながってた。
と見つかることがある。
今朝の散歩そのものがそうだった。
editus LOCUSから出発して、
排泄処、公衆トイレ、個処、此処、ダイクシス、プロンプト、番う、SNSへ横ずれし、
最後にまた公衆トイレへ戻った。笑
今朝の杭
editus LOCUS|排泄処
排泄物 ≠ Waste.
どう見れば、何が見えるのか。
どう見たことで、何が変わったのか。個体から個処へ。
個所から此処へ。主体論・身体論から LOCUS へ。
座標からダイクシスへ。都合よくつがう。
都合よくつながる。
都合よくつながった。
つなげたんじゃない。
歩いて排泄してたら、都合よくつながった。
追記|ダイクシスと都合
1|言葉なき現場/現場なき言葉
Canis lupus とAIは、ダイクシスの異なる側にいるように見える。
Canis lupus|言葉なき現場
AI|現場なき言葉
犬は、「ここ」「そこ」と言わない。
向く。
止まる。
振り返る。
こちらを見る。
指された先を見る。
そこには身体を伴う定位や指向がある。
ただし、それをそのままdeixisと呼んでよいかは、まだ開けておく。
犬の定位・指向 ≠ deixis ?
一方、AIは、
「ここでは」
「先ほど」
「この文章」
「上記の」
「それ」
といった表現を大量に生成する。
その「此処」は、身体的位置とは限らない。
conversationかもしれない。
documentかもしれない。
fileかもしれない。
branchかもしれない。
Webかもしれない。
だから、
Whose here?
と問う前に、
Which here?
と問う必要がある。
どの種類の「此処」なのか。
そして、その「此処」は何によって定位されているのか。
2|Same Work ≠ Same Origin
「都合」と「番う」は、同じ語源だからつながったわけではない。
それでも、どちらにも「あわせる」というWorkが露出する。
ここで面白いのは、共通のOriginを発見することではない。
異なるOriginから来た語が、
此処で、似たWorkをする。
というEncounterである。
Same Work ≠ Same Origin.
語源を遡って同一性を探すのではなく、
Same Originなのか?
──違う。
では、なぜ此処でつながった?
と問う。
都合よくつがう。
都合よくつながる。
都合よくつながった。
同じ起源だからつながったんじゃない。
此処で、都合よくつながった。
朝メモ追記|未回収杭
処は、いつ処になるのか。
Which here?|Whose here?
Wall ≠ Neutral.
つながるのを待てる足場。
Scaffold can hold lag ?
居処は、ZUREやlagを置いておける処?
排泄処|居処
まだ、つながない。